小学生受難の時代と教師の責任

小学生受難の時代である。女子児童は本来庇護してくれるはずの教師から盗撮されて性的な搾取の対象として見られている。そして男子児童はどうかといえば昨今のニュースが聞きたくない事件を詳報している。

可哀想だよ。小学生は大人が守ってやらねばならない。そして一人前にしてあげなければならない存在なのである。それでなくても同級生から爪弾きにされて学校へ通えなくなる児童もいるのだ。

然り、不登校の問題がある。不登校問題は親の育て方が悪い、と一蹴できない構造的な問題を抱えているのではないか。全国各地で不登校の問題がある。不登校の児童が通うフリースクールもあるようだ。

わたしが小学校に通っていた時代は不登校という言葉すら聞かなかった時代で健康でありながら学校へ通わない、通いたくない、という発想すらなかった。病気でなければ有無を言わさずランドセルを背負って歩いて通学させられたものである。

わたしが小学生の頃、校舎の窓から外の晴れた空を見上げて家へ帰りたかった思いがあった。学校に行くのが憂鬱だった。できれば行きたくなかった。それゆえ不登校の児童の心情は少しは理解できるつもりだ。

ある時、教師が率先して児童をいじめていたというニュースを聞いたことがある。世も末である。子どもたちが将来の日本になるのだ。子どもこそ日本の未来なのである。こういう輩は教師になるべきではない。

都市部ではまだ児童たちをそれなりに見かけるが地方へ行けば、そろそろ怪しくなってきているのではないか。子どもが少ないのだ。

ただ、少子化はまだ鋭角的には現れていない。むしろ年配者が多くなっていることの方が先鋭的に顕在化している。

わたしが塾を営んでいる平針でも朝遅く、教室を出て外を歩くと年輩の方々が多く歩いていて、わたしも含めたうえでいうが一種異様である。平針は名古屋の外れにあるからか。それとも名古屋全体の傾向なのだろうか。

若い、ということは未熟であることと同義ではあるが若さの魅力というものもあるのであって、若人と関わることを愉しい、と感じられる人こそ教師になるべきだと思う。

若い頃には若さの魅力を自覚できないものだ。年を重ねていくと色々なことが判ってくる。若さの魅力も分かる。それでは年老いていくことの魅力についてわれわれ年輩者は自覚できているのか。

世にはアンチエイジングという考え方があって若さへの礼賛が躊躇うことなくなされている。しかし日本語には「円熟」という言葉もあるのである。若さ至上主義の人々には理解できない考え方であろう。

そこには年老いて死ぬことへの忌避がある。けれども人は必ず死ぬのだ。死の問題は誰もが避けては通ることができない大問題だ。死を前にして皆、思考停止状態に陥っている。

話を小学生へ戻そう。若さ至上主義者は小学生から色々と学べるのではあるまいか。若さには未熟さがあり、それゆえ心身ともに脆弱さを孕んでいることが判るだろう。

あるいは小学生は嫌なものは嫌という率直さがあることにも気づくことだろう。小学生は大人のように話をはぐらかす、ということはできない。婉曲に否定するといった腹芸もできないのだ。

したがって拒否する場合、まっすぐに拒否される。今回の男子児童の事件も子どもの特徴を十分に理解できない大人の愚かさ、という観点から見ることもできるのではないか。

むろん、それだけの問題ではない。わたしとしてはキリスト者の立場から人間の原罪について述べたい。人間には罪がある。われわれは人間である。それゆえ、われわれも誰かを著しく傷つける可能性はあるのだ。

この三段論法に反論はできまい。老若男女を問わず人間に完璧な人物などいない。聖書は言う。義人はいない。ひとりもいない、と。

この人間の罪という問題を徹底的に考えて日々、意識して生きなければこの世の地獄は消え失せないであろう。原罪ゆえの凶悪事件は昔はなかったのだろうか。あるいは今の時代が堕落しているだけなのだろうか。

だからこそ、われわれ教師は自分のうちにある罪の可能性を直視しつつ、目の前の小学生一人ひとりを守る責任からゆめゆめ逃げてはならない、と思うのだ。

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