読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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営業時間:14:50-22:10
ゴールデンウィーク期間中に親子二組の体験授業をした。保護者の方を前にして授業をした。五月の体験授業は無料だ。やるべきことはやった。
人事は尽くした。後は天命を待つだけだ。いずれの子どもも今年受験生の子どもだった。塾生になってほしい。そして志望校に受かってほしい。わたしが思うに受験生にとってはこの時季がラストチャンスだ。
一人は我が塾からそう遠くない場所に住まいがあって志望校は南山中学校だった。南山中学校だったら過去に合格実績もあり過去問も解いている。
もう一人は愛知淑徳中学校を目指している子どもだった。愛知淑徳中学校なら昨年、古いものから新しいものまで過去問を徹底的に解いている。そして合格実績もある。
ゴールデンウィーク期間中、晴れた空を見ると無性にバイクツーリングに行きたかった。大型バイクをレンタルして茶臼山高原にでも行きたかった。
だが、わたしは仕事を優先した。それが吉と出るか凶と出るか間もなく判るはずだ。すなわち体験授業の結果の連絡が今週末に判るのではないか、と踏んでいる。
体験授業の結果がどうであれ、わたしは今日も教室を掃除し、机を整え、授業の準備をする。聖書をドイツ語に翻訳したマルティン・ルターは言った。「たとえ明日死ぬことになっても今日わたしはりんごの木を植える」と。
含蓄のある言葉である。この言葉は字義どおりに解釈すべきだが世界の終末と述べてピンと来なければ自分の死を思うといい。
というのも死ぬことは哲学的に言えば世界が崩壊する、と言い換えることができるからだ。したがって、われわれもルターに倣おうではないか。たとえ明日死ぬことになっても今日わたしはりんごの木を植える、と。
りんごの木を植える、とは何か。それは結果を求めて動くのではなく自分の良心に従って今日なすべきことをなす、ということだ。教育の仕事は、まさにこれに似ている。
今日の授業が明日の成績に直結するとは限らない。今日の言葉が子どもの心にいつ芽を出すかも分からない。そうであってなお、わたしは教室で教え続ける。それこそが、わたしにとってのりんごの木なのだ。
これが歴史に倣う、ということなのだ。歴史を鏡にする、ということなのだ。テレビの大河ドラマを観て歴史の知識を増やすことよりも昔の人の心を想像して、これに倣うことの方が遥かに大事なのだ。
現代人の誤った考え方のひとつに昔より現代の方が進んでいるという考えがある。けれども、それは本物の歴史書を読んだことがない浅はかな歴史観である。
確かにテクノロジーは著しく進んでいる。わたしとしてもそれを認めるのにやぶさかではない。しかし、凶悪事件は一向になくならないではないか。
父親が子どもを殺めて死体を遺棄している事件さえあるのだ。人間の倫理、道徳面で発展はあると言い得るのか。むしろ昔よりも後退しているのではあるまいか。あなたはもう答えられないではないか。
皆、生きることばかりに懸命になっている。わたしは、いい加減に生きていいとは決して述べていない。けれども上手く世渡りすることよりも大事なことがあるのではないか、と気づけている人はほんの一握りだ。
この世が全てではない。此岸を越えた先に彼岸があるのだ。宗教を軽蔑する人は科学技術にたぶらかされているだけだ。理性を超えた想像力を全く働かそうとはしない。死を前にして思考停止状態に陥っている。
天国はあるのだ。それと同様に地獄もあることを信じている信仰者を侮るのは良くないことだ。ドストエフスキーの著書を読むと彼が悪魔の実在を信じていたことが判る。悪魔の棲家──それが地獄だ。
人間は、いずれ死を迎える。晩かれ早かれ死ぬ日が来る。そうでありながら、お金を貯めるためにあくせく働く。
けれども、それは一概に悪いことではあるまい。むしろ将来に備えて貯蓄しなければ軽率であり愚かだ。だが、そうであってなお、この世が全てではない。お金ではない。学歴ですらない。
われわれは日々、死に向かって一歩一歩、歩を進めている。肝腎なのは内村鑑三が述べているように勇敢で高尚な生涯を後世へ遺すことだ。われわれの生き様がわれわれの遺書にならなければならぬ。
とどのつまり教育とは勇敢で高尚な生涯を送れるように子どもに教えることではあるまいか。最後に言わせてほしい。たとえ明日死ぬことになっても今日わたしはりんごの木を植えたい。
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