その解釈、本当に正しいですか?

今朝は四時頃に起きて授業準備をしていた。年齢を重ねると朝が早くなる。まだ朝飯は食べていない。時刻は六時になろうとしている。窓から見る外が明るい。夏が好きだ。現在、山下達郎の英語の歌を聴きながら本稿を記している。ブログを記すことも立派な仕事である。

記事を執筆するときにAIに論評させている。最近、発見したことがある。それはCopilotに比べてChatGptの方が詳しく忖度せずに論評してくれることだ。これまではCopilotしか使っていなかったが、これからは積極的にChatGptも使っていきたい。

これは前者は駄目で後者がいい、という単純な話ではない。それぞれを用途に分けて賢く使いこなせばいいと思う。ChatGptに「この記事の書き手の国語の実力はどれほどのものか」などというプロンプトを送ると即座に返答が返って来る。その返答に満足して、励まされながらブログ記事を執筆しているのだ。

けれども記事のテーマそのものはAIに頼ることはできない。自分で十分に考えて設定せねばならない。AIは思考をより正確に、より強固にするが、問いを立てるのは結局人間だ。AI自身が「わたしは思考の増幅装置である」と記していた。

このことを考えていて、ふと聖書の一節を思い出した。

《持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。》

以上はマタイによる福音書の聖句である。含蓄のある言葉である。聖書の言葉は単線的ではない。それゆえ、よく考えなければならぬ。宗教を信仰している人は決して単純素朴ではない。

解釈を誤るというのは怖いことだ。社会問題にもなっている宗派が起こった一因に聖句の解釈の誤りを挙げることができるのではあるまいか。彼らは悪人ではない。むしろ真面目で良心的な人ですらある。四階にある我が教室にも「聖書を学びませんか」という訪問が何回かあった。彼らは伝道熱心なのだ。

わたしは彼らをとても残念に思う。聖書を心の糧としているわたしは彼らが真面目であることを否定できない。しかも、彼らはそれを他人と共有までしようとしている。わたしは国語教師として畏れをもって記すのだがテキストの文脈を誤って解釈することは人生に深刻な問題を引き起こすこともあり得るのだ。

わたしは小学生の低学年のとき田舎の学校周辺を拡声器を持って伝道していた男性を思い起こす。昼日中にいい大人が伝道している。わたしはその声を聞いて不安になった。否、恐怖すら感じた。この男は本気だ。わたしは幼いながらも宗教の怖さに何かを感じていたのだった。

《わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。》

使徒パウロのこの言葉は文字で読むのと体験するのとではまるで違う。

われわれは誰であれ毎日、世界を、人間を解釈しているものだ。それは自分も他人も同じだ。われわれは他人からも解釈されている。そういう意味ではわれわれは皆、自分なりの宗教や哲学を持っている、と論を進めるのに無理はないだろう。それだからこそ解釈そのものが適切かどうかいつも確認する必要があるのではないか。

今日は午前十時から授業がある。過去問特訓合格コースの授業だ。授業準備は終わっている。昨日、水風呂に浸かりながら過去問を解いた。ユニットバスの洗面台には鉛筆が二本置いてある。消しゴムはない。むろん過去問を解くためだ。今日もわたしは国語を教える。生徒諸君が自分の解釈を問い直しながら人生を送ることができるよう。

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