先生、わたし、怒っています

授業は終わりつつあった。生徒がとてもいい点数を取ったので一緒に喜んでいた。うーん、と伸びをした。天下泰平である。すると玄関のチャイムが鳴った。保護者が迎えに来たのだ。 すぐに点数を保護者にも伝えた。覚えず頬が紅潮し、早口になっていた。

ところが、その保護者は、にこりともせずに言った。

「先生、わたし、怒っています」

虚を突かれた。心のアラームが鳴り始めた。脳味噌をフル回転させて答えを出そうとする。心当たりはそれなりにある。

保護者は子どもに「教室を出て」と言った。差しで話をしたい、ということか。いよいよ穏やかではない。わたしは身構えた。まだ必死に考えていた。叩けば埃が出る教師である。

子どもが玄関のドアを閉じるのを確認してから「腹が立ってるんです」と畳みかける。しかし、そう言っておきながら「先生の腕は買っているんです」と言う。

「先生、このトイレ、他の生徒さんは使っているんですか」「ええ、男の子が使うことはありますよ」と返した。先程、その保護者は「トイレを借りていいですか」と言いつつも、使わなかった。

そう言って、またトイレの扉を開けてすぐ閉めて顔を顰める。わたしは「近くにコンビニもあるし、地下鉄のトイレもありますよ」と言ったが保護者は首を振る。「先生、掃除は苦手ですか」と尋ねてくる。もごもごと答えを吟味していると、真面目な顔で「娘の運気に関わります」と言う。

運気!テレビによく出ていた占い師の顔を思い浮かべた。わたしはへどもどしながら苦笑するしかなかったが保護者の目は笑っていなかった。

保護者は「先生、あのトイレのタオルで身体を拭いておられるの」と尋ねてきた。ここで答えを誤ると信頼は崩れてしまうと焦った。だから「身体の一部を拭く程度です」と答えてしまった。噓ではなかった。

保護者は「あのタオルが臭いの元だったのね。決めた。わたし来週、掃除に来ます」と言った。「先生、実は来週の今日、仕事を休む許可をとったのです」「先生のことを気にしてくれる人はいないのかしら」と言った。

さらに言葉を継いで「先生はキリスト者だから…」と言ったが、その後はよく聞き取れなかった。教室の一隅には文語訳の聖書が置いてあった。埃を被っていた。

「先生、こんな環境は生徒のためにも先生のためにもなりません」「掃除しないで待っていてくださいね」「朝の10時に来ますからね」と念を押して、子どもと帰って行かれた。帰り際にケーキのモンブランも頂いた。やられっぱなしである。

わたしはしっかり者の姉に言われるがままの出来の悪い弟のようだった。実はわたしの方が年は上なのだが。

そして後日談になるが、保護者はすっかり手配を済ませ、あとは清掃業者が来るばかりになっていた。わたしにも電話をかけ、費用も全部負担する、と言った。出来の悪い弟は恐縮を通り越して、すっかり感じ入ってしまった。

親子が去ると、日も暮れかかっていたが、すぐにいつも使っている三枚のタオルを外の洗濯機に放り込んだ。そしてトイレは綺麗なタオルに替えた。

そう言えば保護者は「洗濯機はありますか」とまで聞いてきた。だが、わたしは嫌な気が全くしなかった。むしろ――ますます憎めなくなった。

わたしは胸中で呟いた。「味なことをやるじゃないか」そして、モンブランを一匙掬った。

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