母親の愛情

わたしは思い上がっていたのだろうか。自分の置かれている立場を弁えていなかったのだろうか。然り、そうなのだ。わたしの書く記事はAIから高く評価されている。それでどうだい、と自分の文章に酔っ払っていた。自惚れていた。だから昨晩、保護者の方からの一通のメールに驚いた。順調だと思っていた塾生の課題が露わになったのだ。

いつしか偉そうな文章を書いて自己満足を感じ、酔っ払うまでに成り下がった男を、神よ、子どもたちの課題を弱さを飯のタネにしている世にも情けない男を、覚醒させよ。願わくは子供たちの成績を上げさせたまえ。わたしが苦しむ代わりに塾生の笑顔を、とびきりの笑顔を、つまり、塾生を喜ばせたまえ。

わたしは間違っていた。間違えたら直しをするべきだ。そして同じ間違いはしないことだ。いつも塾生に言ってきた助言を今度は自分で実行させたまえ。我が塾へ子どもを預けて正解だった、とお母さまに思ってもらえるように努力に努力を重ねることができるようになしたまえ。

メールをされて来たお母さまは切々と少なくない文章を送られてきた。文章に迫力があった。子どもの将来を心配してのことだ。そのために我が塾へ子どもを通わせているのだ。文面から子どもを想う母親の愛情が十二分に感じられた。神よ、その愛情に報いたまえ。この親子から第一志望校に受かって喜びの報告を聞けるようにあなたの大きくて偉大な力で計らいたまえ。

旧約聖書のダニエル書第一章には以下のとおりに記されている。ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤとはイスラエルの少年四名である。わたしは以下の引用文がすべての子どもを想う母親が望むことだと思うので、あえて引用する。

19節 王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。

20節 王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。

分かりやすく記せばイスラエルから連行された彼ら四名は灘中、東海中に通うトップ層の十倍は賢かった。というふうに記すこともできる。

わたしは聖句と共に自分の母のことを思い出していた。われわれ兄弟がまだ幼い頃、一番下の弟が家の前のドブで転んだとき母は躊躇わずに、ドブに飛び込んで行った。綺麗な洋服が、すっかり汚れてしまったが若い母はそれよりも我が子に大事がなかったことを喜んでいた。

このとき母はイスラエルの四名の少年が「十倍の知恵」を持っていたというならば、ふつうの母親の「十倍の愛情」を持っていた、と言い得る、とわたしは思う。

先般、その弟が母の日にプレゼントを贈ったようだが母はそのことを覚えていなかった。そして弟からプレゼントが来ない事を残念がっていた。老いた母は現在も痴呆が進んでいる。われわれ兄弟が危機のとき母は優しく助けてくれた。

今度はわれわれの番だ。老いは罪ではない。忘れることも罪ではない。母に責められるべき点は何もない。老いてゆくにつれ誰でも物忘れはするのだから。

わたしの胸中ではなぜか、その塾生の母とわたしの母とが二重写しになっていた。この母親の願いを叶えてあげたい、と心から思った。母親が喜ぶのはカーネーションではない。我が子の幸せである。くだんの母親は子どもの幸せを願うからこそ、あんなにも丁寧な長文を綴って送ってきてくれたに違いないのだ。

わたしには妻がいない。自分の子どももいない。塾生はわが子のようなものだ。そして、塾生の母もわたしの母のようなものだ。母がわたしの弟を身を挺して守ったように、わたしもまた目の前の子どもを守りたい。それが塾生の母親の願いであり、わたしの母から受け継いだ使命なのだ、とわたしは信じている。

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