読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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ある塾のブログに他塾のブログの投稿について、たとえ生徒の名前を伏せていたとしても塾での出来事を不特定多数に向けて発信することは望ましくない、という主旨の文章が載せられていた。耳の痛い言葉だ。しかしながら、さような言葉にこそ何か改善のヒントが隠されているものだ。それゆえ、わたしはこの言葉を無視しない。
我が塾のブログではときどき生徒の名前を伏せて教室の様子を記している。上記の文章の趣旨からすれば望ましくないことになる。けれども、と考える。そうであるならば塾の様子が外からは分からなくなる。すると図らずも教室の密室化に繋がらないだろうか。
わたしは若い頃に法曹を目指していた時期があるからよく知っている司法の問題の一部で例示したい。例えば被疑者の取り調べの場面を想像してほしい。取り調べの場面が外から分からないから行き過ぎた取り調べになってしまうのではないか。むろん塾の教室と被疑者の取り調べの場面を重ね合わせることには大きな飛躍があるかも知れない。したがって両者を同一視するつもりはない
密室そのものが悪なのではなく、権力関係が存在する場所に外部からの検証可能性がまったくない状態が続くことが危険なのだ。密室化は教師の言動が検証されない、子どもが閉じた力関係に置かれる、保護者が安心できない、教育者自身が独善に陥る危険を孕む。
わたしは以上の点で冒頭で記した某塾の塾長より人間に期待していない。遠慮なく記せばもっと悲観的である。そうであってなお、否、そうであるからこそ、不特定多数に向けて発信するのは止めようとは思わない。
むしろ自分の教育行為を言葉で外部に晒して外から点検、確認できるようにしたい。わたしが良かれと思って行った指導、あるいは喋った言葉は本当に生徒諸君のためになっているかを改めて確認する意味で、わたしはプライバシーに十二分に配慮しながらも教室の様子を書いていきたい。
わたしの文章はいわゆる晒しではなく教育者としての自己監査 に近いのではないかと思う。個人塾では大手塾に比べて組織的な評価や第三者的なフィードバックを受ける機会が少ない場合がある。それゆえ自分に対する評価が甘くなることこそ懸念すべきだ。
塾講師は教育サービスの提供者であり、教育者でもある、とするのがわたしの信じる立場だ。二面性があるのだ。塾講師は自分こそは立派な教育者である、として自分を過大に見ない方がいいと思う。
教育者であっても人間だ。人間は弱さを抱えている。それゆえ教育者も弱い、と考えるべきだ。我こそはその例外である、という姿勢だとかえって理想とする教育者から遠い姿勢になってしまうと思う。
わたしはあえて生徒や保護者に十分配慮しながらも教室の様子は可視化すべきだと思う。具体的に例示はしないが教室の密室化をいいことに生徒を非道く傷つけた教師の事件が今に至るまで根絶できていない点は指摘しておきたい。
それでも某塾の懸念するところも理解できる。ブログでの公表は書き手の意図しない文脈で誤解される惧れが完全にないとまで言えないからだ。なぜなら完璧な人間はいないからだ。
したがって冒頭の耳の痛い言葉の真意を汲めば生徒諸君はむろん保護者を傷つけない配慮の徹底を改めて図ることが必要になる、ということになるだろう。
言い換えると、透明性が高すぎればプライバシー侵害が起きる。一方で透明性が低すぎれば内部で何が起きているのか誰にも分からなくなる。要するにバランスを取ることが大事だ、となるのではないか。
全部見せることでも全部隠すことでもなく、適切な匿名化や抽象化をした上で教育実践そのものについては外部から検証可能にすることをブログをとおして実践していきたいのだ。
けれども、そもそもブログに書くことで自己監査になるとは限らないのではないかという反論も当然予想されるだろう。つまり、ブログは自己監査装置にもなり得るが自己正当化装置にもなり得るという反論だ。
その意味でブログで教室の出来事を書くことには危険があるという某塾の塾長の直観は完全に間違っているとは言えない。それゆえ公開するなら自己監査として機能するように書かなければならない、ということは自戒の意味も込めてあえてここに記したい。
まとめるとブログは外部監査そのものではない。しかし、自分の教育行為を外部から検証可能な形に置くための一つの手段にはなり得るのではないか。さようにわたしは考えている。そして結論を端的に記すならば、やはり教室を適切な仕方で可視化するべきだ、と思う。
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