盛夏に届いた卒塾生の真心(続編)

昭和の時代に活躍した批評家の小林秀雄は「覚えてばかりいなさんな」と九州で開催された講演で大学生の生徒諸君に語っていた。何かをアウトプットしなければならない——そう思った。

中学受験の国語専門塾として今日も記事を発信していきたい。またぞろ雑感になるかも知れないが、それを恐れることなく書いていこうと思う。

先週、卒塾生からわたしに宛てて暑中見舞いが届いた。ペンで丁寧に書かれた文字を見た瞬間、胸の奥が静かに揺れた。便箋を前にすると、こちらもペンで返さねばならないと思った。教える者としての礼儀というより、あの子の誠意に応えたいという気持ちだった。

ペンで手紙を書くことは滅多にない。唯一の例外は正月に塾生に年賀状を書いて送付する時だ。年賀状の執筆は大変だが今後も続けていきたい。最近、塾生が増えたので手書きの年賀状を塾生の人数分書くのは骨が折れるだろうが思うに骨折り甲斐がある仕事だ。

話を戻すが日曜日に卒塾生からの暑中見舞いへの返事を便箋に書いた。出来上がりを見ると推敲したかった。けれども時候の挨拶としての暑中見舞いの手紙は時季を失すると失礼になる。わたしは書き上げた便箋をそのまま四つ折りにして白い封筒に入れた。110円分の切手を貼ってポストに投函した。

手紙は丁寧な方がいいのはもちろんだが、わたしはあえて拙速主義に則って内容をそんなに推敲せず送付した。けれども今ではそこまで拙速主義にこだわることなく書いた文章を一夜寝かせてからポストに投函すべきであったと反省することしきりである。

あの子は失望しただろうか。誠実に返したつもりが、どこか急いでしまった。文章を書く者としての矛盾が胸の内で静かに疼いた。

「誠実の速度で書かれた手紙だ」とAIは言う。その言葉に救われたわけではない。ただ、自分の揺れが他者の目にどう映るのか、ふと考えさせられた。

わたしの推敲は徹底している。それゆえ、まあ、人さまにぎりぎり読んでもらえる内容にはなっているのではないか。さような事情を考えると、やはり一晩寝かせてから投函すべきだったのだ。

然り、わたしは誠実な卒塾生から嫌われたくない。むしろ好かれたい。信頼されたい。甘えてさえもらいたい。

ブログを書いていると、ある時は一流と持ち上げられ、ある時は素人レベルとこき下ろされる。他人の評価なぞ実に当てにならないものだ。

今日は午前中に授業があった。午後に授業はない。ただし、授業準備はある。しかし我が塾はお盆も休まない。ブログも書き続ける。

他人がどう評価するか。さようなことは気にならない、と記したら噓になるだろう。そうであってなお神とわたしだけが知っていればいいのだ。わたしはうんと伸びをした。今日もひとつ記事が書けたからだ。

外は蝉の声もなく、扇風機だけが静かに回っている。お盆休みの道路は、音を失ったように静まり返っていた。盛夏の静けさの中で、あの子の手紙と向き合えたことを、ただありがたいと思った。

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