読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
TEL 052-918-2779
営業時間:14:50-21:00
遠雷のごとく花火の音が聞こえる。家族と一緒に夜空に咲く大輪の花を見上げた少年の日を思い出す。もう本稿を仕上げて休みたいが、ある塾のブログに目が留まってしまった。そのブログには概ね次のようなことが記されていた。
生徒の悪口を書く塾ブログや思想の強い塾ブログといったものを全てアンインストール、ブロックした、と記してあり、物理的に見られない状況を作ることで、その分他のことに時間を回せるのではないか、ということが主旨だった。
情報化社会の今、われわれは毎日大量の情報が否応なしに入ってくる。そのため、意図的に情報を見ないようにしないと脳がパンクしてしまうという理由が律儀にも記されていた。
アンインストール、ブロックする、という方法には確かに合理性はあると思う。情報を遮断して自分の仕事に集中することを以て粗忽者と決めつけるのは妥当ではない。むしろ、現代の高度情報化社会で生きているわれわれは情報の奴隷にならないように自分なりの情報リテラシーを考え、実行すべきだ。
ましてや、それが生徒の悪口を書く塾ブログならなおさらだ。けれども、とわたしは考える。思想の強い塾ブログまでブロックしているのはなぜだろうか。わたしの塾は明らかに思想が強い。そして、それを前面に押し出している。
正直に記せば我が塾も批判の対象にされたのではないかと思い、わたしは少し傷ついた。しかし、その感情とは切り離して考えてみたい。
そもそも情報を遮断する、という話と思想の強いブログを遮断する、という話は本当に同じカテゴリーなのか。情報は脳に入ってくる外部刺激の量という側面を持つ。一方、思想は、その情報についてどう考えるかという意味、価値判断に関わる。
情報量を減らすために情報源を遮断する、という話と特定の思想を持つ人の発信を遮断する、という話は同じ「情報遮断」という言葉で括れるほど単純ではない。
しかも思想の強いブログを読まないということは単純に情報量を減らすだけではなく、自分と異なる価値観との接触そのものを減らすことになる。その結果、自分の考えを相対化する機会を失い、独善的になる惧れもある。様々な価値観に触れることには自分の考えを相対化する効用がある。自分の考えをいったん外から眺めることで初めて見えてくるものがある。
天気予報のように時間が過ぎれば役割を終える情報もある。一方で、歴史の風雪に耐えて読み継がれてきた思想には時代を越えてなお人間に問いを突きつけるものがある。
わたしはキリスト者なので「聖書を読め」と言いたくなるが、他の思想書を読んでも構わない。時代の風雪に耐えた思想書に直にあたってから感想を言えばいいのではないかしら。
わたしが本を読むのは他の思想に親しみたいからである。物語の中の、自分とは違う思想に心躍らせたいのだ。読書の醍醐味は異質な思想に触れることだ、とわたしなら考える。そういう豊饒なひと時は脳をパンクさせない。むしろ脳に刺激を与え、心には滋養を与えると思う。脳は物理的な限界があるが心は無窮だからだ。
そもそも今の自分は過去の自分とは違う思想で生きているではないか。昔を振り返れば当時は当然だと思っていたことが今ではそう思えなくなっていることに気づく。そこに自分の成長の軌跡を認めることができるのではないか。
もちろん、誰のブログを読むか、誰のブログを読まないかは、その人自身が決めればいい。わたし自身も日々の生活の中で読む必要がない、と判断した情報を退けることはある。
しかし、とわたしは考える。そもそもどの思想を遮断し、どの思想を残すかという情報の取捨選択には、どうしても自分自身の思想や価値観が関わってくるのではないか。
最後に、子どもたちには自分と同じ考えの文章だけを読んでほしいとは思わない。自分とはまったく違う考えに出会い、少し戸惑い、それでも文章を読み進めてほしい。国語を学ぶということは、そういう経験の積み重ねでもあるのではないか。最後に蛇足ながら、この稿を読む自由もあることを付記して筆を擱く。
コメント