彼ならどう教えるだろうか

仕舞った。朝飯に海苔を加えることをうっかりしていた。塾生の保護者から海苔を頂いたのだ。いつも朝食は玄米に溶いた卵をかけて、その上に釜揚げしらすをパラパラと振りかける。これがすきっ腹に効くのだ。ここに海苔が加われば、また違ってくるはずだ。朝食は毎朝卵かけご飯だ。釜揚げしらすは近くのスーパーで買ってくるのだが結構高い。

朝食は毎朝六時過ぎだ。玄米をレンジで温めている間に卵を割って器に入れて醤油と混ぜる。それを玄米にかけて、もぐもぐ咀嚼する。モーニングを食べに外へ出かけてもいいのだが食べ物にさまで興味がないし、今は暑いので外に出るのが億劫だ。早朝の時間を使って何をしているかと言えば執筆だ。ブログを書いている。

そう記しておきながら今は午後三時過ぎだ。今朝書いた記事は執拗な推敲を経て脱稿している。いわゆるダブルヘッダーだ。本稿は昨日の日中に執筆されているのだ。本日は授業料の振り込みの締め切り日だ。昨日の日中にもちらほら指定した口座に入金が確認できた。

インターネットバンキングで口座情報をリアルタイムに確認できるのだ。我が塾は高邁な理念を掲げているが、まさか霞を食べて生きていくことはできない。口座情報を知ることも仕事の一環として大事なことなのだ。正直に記すと、わたしはお金が嫌いではない。

昔、付き合いの長い友人がかく語りき。「水上君、世間には弱い人もいるのだよ。楽して大金を稼ぎたい、というのが本音ではないか。君みたいに意志の強い人間ばかりではないよ」と。わたしは、この言葉に妙に納得してしまい、今に至るまで覚えている。

この語り方はわたしの自尊心を傷つけていない。わたしに配慮しつつ自分の主張を述べている。今、分析してみるとそれが判る。さらにいえば、この友人は旧司法試験の短答式試験に合格していた。しかも、それを自慢するでもなく、こちらから問い質して、ようやく重い口を開いたのだ。わたしはさようなところを好ましく思っていた。

ただ、この友人にも心はある。それどころか熱い奴だった。「世のため人のため」が口癖だった。彼がたまに言う「好きで貧乏やっているんだ」という言葉は言い過ぎではないかと思ったが、たしなめる言葉を飲み下した。嫌われたくなかった。いついつまでも永遠に友人でいたかった。

大学のゼミが終わってから食事を共にして彼の下宿で明け方まで語り合った。覚えてくれているはずだ。わたしがキリスト者だと知ると色々な質問をしてくれた。それは興味本位というのとは違ったが入信するというのでもなかった。議論に疲れて眠っている間に日は高く昇っていた。

彼は学生時代から自活していた。大学に通いながら家庭教師として生活費を稼いでいた。ある家庭では母親に大変気に入られ、某宗教に熱心に勧誘されたことを面白おかしく話していた。

その母親はある大学の女性を持ち出して、入信したらこういう賢くて可愛い女性を紹介する、と言うのだそうだ。われわれは一緒に笑った。わたしは「入信してみたら。だって一流大学の美人と付き合えるのだよ」と意地悪を言った。そう言うと彼は「わたしはヨシキ教の信徒」だと混ぜっ返す。

わたしは今、友人の話を愉快に書いているように見えるかも知れない。けれども友人はわたしの許を去った。毎年きっちりと元旦に届いていた年賀状も届かなくなった。わたしは失ってはいけない大事な何かを失った。

わたしは塾生に一生懸命教える。そして生徒の弱さをことさらに責めることもしない。かつての友の「水上君、世間には弱い人もいるのだよ」という箴言を尊重したいからだ――彼ならどう教えるだろうか。

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