五十にして天命を知る

わたしは大分、齢を重ねてから塾経営に乗り出した。人生の後半を消化試合として生きる人も少なくないかも知れない。だが、わたしはこれからの人生を塾講師として生きてゆきたい、そして塾講師として死んでゆきたい、と願っている。

わたしは五十歳の頃はゴミ収集の仕事に従事していた。それと並行してプロの家庭教師として中学受験の国語を小学生に教えていた。ゴミ収集を終えてからコンビニでスーツに着替えて家庭教師先の家庭を訪問していた。家庭教師の仕事は毎日あるわけではなかった。週に二、三日あるだけだった。

当時ゴミ収集では肉体を使い、家庭教師では頭を使い、激しく働いていた。土日の休みを目指して「さあ、一週間の始まりだ」「やっと週の半場の水曜日だ。」「今日は金曜日だ。終わったら明日は休みだ」と自分を鞭打ち、苦しい労働に耐えていた。土日の孤独と自由が嬉しかった。

七年もの間、ゴミ収集の仕事に従事していたが、最後の方ではほとほと嫌気がさして遂に職を辞した。しばらくは家庭教師一本で暮らしていた。しかし、家庭教師の仕事では生計が立てられなかった。それはそうである。時間で給料を貰っているのだから。家庭教師の時給はお小遣い程度であった。

さらに職業安定所で失業手当が給付されるようになると家庭教師のアルバイトはできなくなった。八方塞がりの中、血迷って資格試験の勉強をしていた時期もあった。だが、昨今の資格試験は混沌としたご時勢の所為かどれも異常なほどに難しくなっている。

紆余曲折はあったが、それならばと塾開業を思い立ったのだ。父母が住む地元で個人塾を開業していた人物を知っていた。彼の存在を思い出したことがターニングポイントになった。

それゆえ塾経営のイロハも分からなかったわたしは彼に手紙と共に高価なクオカード二枚を添えて教えを乞うたこともあった。五十歳を過ぎてからの起業は社会的には無謀に見えるかもしれない。しかし、わたしには他の道はなかった。

塾を開業するにあたって先ずはホームページを作ることから始めた。ホームページ制作はYouTubeの動画を視聴しながら見よう見真似で作っていった。毎日、悪戦苦闘した。ホームページ制作は簡単ではなかった。なかなかいいホームページは出来上がらなかった。ホームページ制作ひとつ取っても塾経営は簡単ではない。

並行して小学校の前でチラシ配布をしたこともあった。小学生一人ひとりに「中学受験に興味があるか」と聞いて「然り」と答えた小学生にだけチラシを配った。子どもたちの笑顔が眩しかった。質問した意図はゴミを出したくなかった点にある。

受け取らなかった小学生もいた。のみならず舐めた態度を取る子どももいた。昔、勤めていた大手塾で生徒を平手打ちした教師がいた。悪いことに保護者がそれをたまたま目撃した。その教師は会社を辞めることを余儀なくされた。わたしは、ふとそれを思い出していた。

保護者の方には黙ったまま眉をひそめる方もおられた。むろんチラシ配布は学校に事前の許可を得ていた。当時、集団下校の流れに逆らうようにチラシを配布していたのだから眉をひそめられるのも当たり前だ。チラシ配布にも作法があるのだ。当時のわたしは作法を分かっていなかった。

雨の日にチラシを配ったこともあった。ネットの天気予報を信じて傘を持たずに小学校へ出かけたら雨が降ってきて濡れ鼠になったことがあった。その時は親切にも子どもを迎えに来ていた見ず知らずの保護者の方に傘を頂いた。人の情けが身に染みた。

けれども、努力しても生徒は来なかった。電話も鳴らなかった。鳴ったと喜んだのも束の間、営業の電話だった。むしろ努力を重ねるほど生徒は来ない、というのが現実に近かった。目の前には、ただただ厖大な時間があった。救いだったのは賃貸マンションのオーナーや管理会社に理解があったことだ。

もしも今のように自分の住む賃貸マンションを教室にできなかったら、とうに廃業を余儀なくされていたであろう。教室を別に借りるとなると固定費が馬鹿にならない。廃業する塾のほとんどが借りている教室の固定費の圧迫に耐えかねて撤退していく、という。

開業当時、すべての上手くいっている塾が羨ましかった。どうせうちの塾なんてと不貞腐れたくなった。だが、文章だけは書き続けた。ブログ執筆は国語塾の看板を掲げる以上ほとんど義務だと思った。

今振り返ってみると、いわゆる個人塾の起業は何でも自分で行わなければならない険しい道だった。だが、塾を続けていくと、突然目の前に新たな地平が拓けてくる。現在ようやく塾経営が軌道に乗り出したわたしの経験から言っても間違いのない事実だ。思うに子どもの成績にもこれと同じことが言い得るのではあるまいか。

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