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3分の1を三回足すと3分の3である。約分すると1になる。それでは3分の1を小数に直すとどうなるか。答えは0.33333‥‥である。割り切れない。それでは0.33333‥‥を三回足すとどうなるか。答えは0.99999‥‥になる。分数と小数で計算が一致しない。
小学生が習う算数の計算分野にこのような綻びがあるのだ。計算は数学の基本だ。そして科学は計測抜きには語れぬ学問だ。科学は数学の計算に拠って立っているはずだ。ところがこのような単純な計算に決定的な瑕疵があるではないか。
確かに科学は人類に莫大な利益を与えている。今更、いわゆるアーミッシュの人々のように電気もガスも使わない生活に戻ることは難しい。科学を否定するならば、そこまでやり給え。アーミッシュの人々は決して変わり者ではない。自分たちの思想に忠実なだけだ。筋をとおしているのである。現代を生きるわれわれとは考える前提がそもそも違うのだ。
わたしも科学の粋たるスマホを使っている。買い物に行けば、バーコードをかざすだけで自動的に合計額が算出される。この文章もAIに論評させている。現代社会において科学抜きには生活することさえままならない。
しかし、科学は両刃の剣であることは覚えておいてもいいだろう。科学を否定する、というのではない。科学に負けてはいけないのである。科学は上手に利用してやればいいのだ。
科学は計測できないものを何とも思っていない。君の悲しみは計測できるか。愚問である。たとえ計測したところで、そもそも計測するための計算には前出のような致命的な瑕疵があるのだ。科学は「測れるもの」を対象とする。しかし人間の本質は「測れないもの」に宿る。
科学はもっと批判されていい。われわれは科学という現代の神聖なるドグマにもっと疑いの目を向けるべきだ。だが便利さを求めるわれわれは科学を大事にして甘やかしてきた。このままでいい訳はない。
東日本大震災での福島の原子力発電所の事故を想起すればいい。安全神話が見事に崩壊した一例だ。想定外の災害に原子力発電所は耐えられなかった。津波は専門家の理性を超えていた。科学は「想定外」を想定できない。科学は「未知」を扱えない。科学は「不確実性」を嫌う。
現代ほど便利な時代はない。部屋を自動で掃除してくれる掃除機がある。人の気配を察して自動的に電灯が点く。しかし、便利な面ばかり見て喜んでばかりもいられない。外に出れば自動車が走っている。自動車に撥ねられて死亡する人々はあんなにも多いではないか。科学を増長させた結果がこれである。
「哲学は神学のはしため」という言葉がある。高校時代に世界史で習った言葉だ。これと同じ態度で科学も利用すればいいのだ。目的のための手段と割り切って利用に徹すればいい。科学は主人ではなく召使いだ。どうやらわれわれはそのくらいの距離で科学に接した方がいいようだ。
哲学や神学という学問はもっと注目されていい。科学の作り出した殺伐とした現代文明の意義を解釈するのが哲学である。神学は神の御心を探る古来からある由緒正しい学問だ。
しかし、現代社会にあって哲学を志す人などいないかも知れない。だが、読者諸賢を悩ませている中心的な問題は哲学の問題ではないか。今どんなに流行っていなくても自分にとって必要なら哲学を勉強すればいい。
閑話休題。身近でAIを使っていると、科学とはどんなものか、が理解できる。科学に意思はないのだ。科学に感情はないのだ。さらに言えば科学に倫理はないのだ。科学に人間が倫理を吹き込むべきだ。
ところが、現代では戦争のために兵器としてAIが使われている。ドローンが使われている。科学が人を殺傷するために利用されているのだ。われわれ人間は罪深い。人間の「罪」の問題は時代を超越する。歴史を超えている。
ことほどさように科学も大事だが哲学も神学も必要な時代が現代なのだ。現代では「科学」と共に「哲学」や「神学」も睨みながら横断的に学問をする必要が、いよいよ増してきた。真理はひとつ。学問も本来ひとつである。
宗教を軽蔑する理性重視のわけ知り顔の大人は、この小論をどのように受け取るだろうか。この小論は我が塾の塾生が大人になった時に読む未来への手紙だ。その頃にはわたしは地上にはいないであろう。
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