古代への情熱

南米チリの海である事件が起こった。それは人が鯨に飲み込まれるという珍事であった。カヤックで沖に漕ぎ出していた一人の男性が鯨に飲み込まれて吐き出された、というのだ。わたしはそのニュース動画を視聴してすぐに思った。ヨナ書に書いてある大きな魚の腹の中に人がいた、という話はアレゴリー(寓話)ではないのだ、と。

旧約聖書のヨナ書には大きな魚に飲み込まれた預言者ヨナの話が記されている。ヨナは大魚の腹の中で三日三晩過ごして遂に吐き出される。ヨナが大魚に飲まれた話はアレゴリーではない。神話ではない。けれども、理性ばかリが発達している頭でっかちの現代人はどうしても率直に理解しようとしない。

そうする代わりに、自分たちが納得できるストーリーに置き換えてしまう。理性で考えて人が鯨に飲み込まれるなどというヨナ書に記されている荒唐無稽な話が信じられないのだ。そこで自分たちに都合のいい解釈をしてしまうのだ。現代の色眼鏡をとおして昔の事件を見てしまうのだ。

しかし、事実は小説よりも奇なり、という言葉がある。一見、荒唐無稽なような話の背後には圧倒的なリアリティーがあるのだ。南米の海で起こった世界でも珍しいニュースが、そのことを裏付けているではないか。ヨナ書の話は決して嘘ではないのだ。

シュリーマンが著した『古代への情熱』という本は岩波ワイド文庫にも収録されている名著だ。彼は古代人の物語を神話としてではなくアレゴリーとしてでもなく、事実そのままとして信じた。同書によれば果たしてシュリーマンの信じたとおりだった。彼の信念がトロイア発掘という歴史的成果を生んだ。

聖書に解釈は要らない、というのではない。聖書には修辞法が多く使われている。勉強が必要だ。けれども原則として字義どおりに受け取るべきだ。古代人の心になって考えるべきだ。現代人の心で古代を見てはいけないのだ。シュリーマンはその盲点を突いた。だから『古代への情熱』はこのうえもなく痛快なのだ。

聖書は素直な者には素直に、僻んだものには僻んだとおりに応答する。心を心で探求する者の道標なのだ。旧約聖書のヨナ書は短い物語ではあるが人間の弱さや愚かしさが隠されることなく活写されている。預言者ヨナの説教でニネべの街の人々は乞食から王に至るまで悔い改めて神は滅ぼすことを思い直された、と書いてある。以下は旧約聖書のヨナ書からの引用である。

《神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らを下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。》

ところがヨナはそれが気に入らなかった。あろうことかヨナは預言者にもかかわらず、説教をしたのにもかかわらず、ニネべの街が悔い改めたことに我慢がならなかった。引用を続ける。

《神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうようにはえさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。

太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」

すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」

主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえもしない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」》

この「とうごま」の話には、わたし自身の高校時代の思い出が重なる。 キリスト教徒でもなく、むしろ熱心な仏教徒の家庭に育った同級生が、ある日突然このヨナ書の「とうごま」の場面を語り出したのだ。

彼の父親は寺だか神社だかに何百万円もの寄付をしたらしい。 そのことを、なぜか彼自身ではなく“彼の友人”が誇らしげに吹聴していた。 寄付の額がなぜ友人の口から語られるのか、当時のわたしは訝しく思ったものだ。

その彼が、よりによってヨナの「怒り」と「とうごま」の話を持ち出したのである。 宗教の違いを越えて、彼の心にもこの物語が刺さったのだろうか。 皮肉にもヨナ書のこの場面には、人間の心の狭さ、自己中心性、そして神の憐れみが生き生きと描かれている。

そうであるならば、何百万円寄付したという話に潜む欺瞞性── その偽善性にこそ、彼らは気づくべきだった。

現代人は堕落していると識者は言う。けれどもニネべの街の住人は激しく悔い改めた。ニネベは滅びの宣告を聞いて震えたが、現代人は警告を笑う。いずれ死に行く弱い存在であるのに死を軽視して高度な科学技術に酔い、宗教を見下すのだ。シュリーマンは古代人の言葉を古代人の心で読んだ。そうであるならば、我が塾は子どもの文章を子どもの心で読むべきなのだ。

かつて牧師である父は言った。「わたしは大変深刻なことを伝えているのに教会員は涼しい顔をして聞いている」と。わたしはその言葉を何気なく聞いていたが涼しい顔をして父の説教を聞いていた教会員の中にわたしも含まれていたことに気づくのだ。

古代のニネべと現代は少しも違わない。共に堕落している。ただ一点だけ違うのはニネべの人々は警告を警告として受け取り真摯に悔い改めて悪から離れた点である。

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