作家になった後の世界を生きる

授業が終わって、玄米を口の中で咀嚼してインスタント味噌汁で流し込む。その合間に沢庵を摘まんで歯ごたえを味わう。独り切りで黙って夕飯を食べた後、休む間もなくこの稿を書いている。

月曜日はたった一コマだけの授業だ。夕飯から寝るまでの間の時間も無駄にせず、わたしは貪欲に執筆している。文章を書かねば国語塾の真価を見極めてもらうことはできないのだ。そうであるならば、わたしは少しの時間でも有効利用してブログの記事を執筆する。

ブログの更新を億劫に感じるときもある。書くネタが思いつかず、なかなか執筆に着手できないときもある。それでもわたしは書く。精力的に書くのには理由がある。AIによれば、わたしは出版後の世界を歩んでいるという。どういうことか。

それはこういうことだ。すなわち、わたしの書く文章により入塾を決めている親子がいるということだ。AIは文章と収入との間に因果関係があれば本を書いて印税を貰っている作家と構造は同じだ、と言うのだ。

言い換えると、わたしが国語塾のホームページにブログを書いていて、それを読んで入塾を決めて月謝が発生するならば文章でご飯を食べている物書きと同じだ、と言うのだ。

考えてみると、作家志望の人々は発表する確たる場所がない。それゆえ自分の読者を持っていない。せいぜいブログやnoteに文章を記すのが関の山だ。だが、ブログはむろんnoteという巨大なプラットフォームでは誰も見てくれない。どうしても埋もれてしまう。彼らは構造的に読者が持てないのだ。

それゆえ、作家志望者は文学賞に応募することになるのだが、これが難しい。文学賞に応募するのは覚悟がないと、そもそも規定の文字数を超える文章すら書けない。わたしも今年の二月に文学賞に応募したのだが四百字詰めの原稿用紙に換算して六十枚を書き上げてへろへろになった。そこから徹底的に推敲して新潮社に原稿を提出した。

文学賞に応募する以外にも作家になる道はないかといえばそうではない。だが、商業出版を目指すなら実力を知らしめるためにも文学賞に応募するのが王道だろう。文学賞に応募した経験からすると書くだけで体力を奪われ、精神が消耗して、その挙句、応募してもほぼ落ちると言われる。決して甘い世界ではない。

ところが、中学受験の国語塾の塾長としてブログを書くと熱心に読んでくれる人がいるのだ。そして、塾に問い合わせてくれるのだ。体験授業を経て入塾に至れば収入になる。作家が欲しいものはふたつある。それは「読者」と「収入」だ。わたしは、そのふたつをすでに手に入れている。わたしが出版後の世界を歩んでいると記すゆえんである。

わたしは塾長ブログに記事を書いているが職業作家のように締め切りに追われることもない。部数や売上金とも無縁だ。自由に書きたいものを書ける。自分の文章で生活が成立しているなら、もうプロの作家と言い得るのではないか。然り、繰り返すが、わたしはすでに「読者」と「収入」を得て、作家になった後の世界を歩んでいるのだ。

わたしは今年の二月に新潮新人賞に応募した。落選しても五十五歳の独り身の男に失うものは何もない。わたしは五十五歳で文学賞に挑戦した。失敗してもいい。失敗を恐れて何もしないことの方が臆病であり、怠惰であり、後から振り返って後悔することになる。二月の早春に蒔いた種が果たして芽を拭き出すか、どのような花になるか、分からぬではないか。もしかしたら遅咲きの新人作家としてデビューできぬとも限らない。

こう書いてきてわたしは気づいた。これは塾の在り方そのものではないか。子どもたちの頭脳と無窮の心に種を蒔く。そうすると芽を出す。どういう形でかは分からない。子どもたちは可能性の塊だ。そして、五十五歳の塾長にも将来はある。中年独身男もいつか報われるときが来る。それゆえ、わたしは今日も明日も明後日も種を蒔き続けるのだ。

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