生徒へのまなざし

桂枝雀という噺家がいた。彼の話芸は分かりやすく、しかも面白かった。わたしには彼の話芸はほとんど完璧に近いように思われた。多くのファンがいた。わたしもそのうちの一人だ。彼の芸事に対する姿勢は徹底していた。

したがって、彼の芸事に対するこだわりは並々ならぬ気魄さえ感じさせるものであった。生前、彼は芸事が辛い、苦しい、と漏らしていたそうだ。そして遺憾ながら死ぬことで決着をつけた。彼は関西の国立の名門大学を卒業していたはずだ。

晩年、彼は英語での落語にまで手を染めていた。英語落語のパイオニアであった。誰にも追随を許さなかった。彼の英語落語は現在、CDで聴けるはずだ。芸事は身を助けるが、超一流の噺家には誰にも理解されない孤高で唯一無二の立場ならではの悩みがあったようだ。

わたしは枝雀の悩みや辛さがほんの少し分かるような気がする。こうして文章を一から書くのは難しい。そして辛い。作家の遠藤周作はこれを「くるたのしい」と表現した。枝雀や遠藤周作と同列に論じるのは気が引けるし、僭越かも知れないが、わたしの執筆も楽ではない。苦しいし、辛い。

けれども、こうして書く文章が、素晴らしい生徒を我が塾へと連れて来てくれるのだ。そうであるならば辛くて苦しくても執筆を続けねばなるまい。というのも塾稼業は深い満足を与えるからだ。一日が過ぎるのが速い。会社員時代の比ではない。子どもと関わるのは愉しい。

もちろん授業はそれまでの下準備を考慮すると、ほんの一瞬だ。多くの時間は孤独だ。そこがまたいい。人間関係の煩わしさがない。かつての大人の職場では人を傷つけ、人に傷つけられた。人間の愚かさと陰険さを身を以て味わった。

旧約聖書のエレミヤ書には以下のように記されている。

《クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。》

子どもたちは大人と比べたら純真である。たしかに残念ながら例外の子どももいることにはいるだろう。けれども、我が塾は意地の悪い子どもは入塾させない。わたしがこうして書いている記事がフィルターになっている。我が塾は、やる気があって素直な子どもにこそ門戸を開いている。

塾講師は教育者ではなくサービス業者だとする意見があることも承知している。そうであってなお、わたしは塾稼業が好きだ。塾講師は教育者ではないとか、サービス業者としての自覚を持たなきゃいかんとか何だとか、かんだとか、どうでもいい。なぜなら、わたしが深い満足をしているのは事実だからだ。

塾講師を定義するにあたって教育者かサービス業者かの二者択一ではなく、その全部というのが事実に近い、とわたしは思う。そう思えて子どもを想い、孤独に耐えることができれば塾講師としての適性はある、と言い得るのではあるまいか。

昨日は受験生の親子が来塾された。その子は塾生としては初めての授業を受けていた。並行して保護者の方と今後のことも話した。まだ志望校が固まっていない、ということで色々、話していた。

その子は途中で「うるさい」と言った。過去問を集中して解いていたからだ。わたしはちっとも腹が立たなかったし、もっともだと思った。

むしろ、その真面目さを微笑ましいと思った。そして、その生徒の書く文字は丁寧で、筋のいい文章を書いていた。まるで、その子の人柄が滲み出ているような文章だった。

こういうことを記すと不謹慎だ、というお叱りを受けるかも知れないが今の時点で志望校が決まっていない、という鷹揚さがわたしには面白く思われた。

もちろん早いうちに志望校は決めなくてはならないが、わたしは世のお受験ママみたいに欲のないこの親御さんに好感を持ったのは事実だった。

そのお子さんも素晴らしい人柄の塾生だ。育て方がいいのだ。わたしは我が塾の生徒が皆、可愛い。志望校が決まっていない生徒、古参の生徒、最近の生徒、成績が今いちな生徒、逆に最近偏差値が20以上アップした生徒、どの生徒も我が塾の愛すべき生徒だ。

あなたが読んでいるこの記事も塾稼業を続けたい、という強い動機から書かれている。ほとんどのブログの記事は早朝に執筆している。一日のうちで一番いい時間をブログ執筆の時間に充てている。それは読者に最上の時間を献上しているのと同義だ。

もちろん、わたしには枝雀や遠藤周作のような名声はない。そもそも名声は求めていない。しかし、塾生には頼られたい。甘えられたい。多くのいい生徒を集めたい。そして、すべての塾生諸君とその保護者の方々に喜ばれたい。そう思いつつ今朝もここまで書き進めた。

はなはだ僭越かも知れないが文章はわたしにとって、枝雀の高座であり、遠藤周作の原稿用紙であり、わたし自身の芸事の舞台なのである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次