読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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少年の頃、父が書斎を離れて居間でテレビを見ているのを生意気にも咎めたことがある。父は困ったような顔をして「テレビを見ながら考えているのだ」と答えた。父はいたずらに時間を費消していたわけではなかった。
教会の日曜日の礼拝の説教の構想を練っていたのだ。テレビを見ながら思索していけない、という法はないのだ。我々はテレビの画面に没入してヒューマンドラマを愉しむが、父のようにテレビなどうわの空で深く思索している人間もいるのだ。
哲学者の西田幾多郎は歩きながら考えた。カントの歩く姿で街の皆は時計の時刻を合わせた。してみると書斎にいながらうんうん考えていても碌なことにはならないのかも知れない。父がテレビを見ながら考えていたゆえんである。
考えたり本を読んだりするために立派な書斎は要らないのかも知れぬ。アルキメデスのように風呂に入りながら考えてもいいのだ。わたしは夏に水風呂に入りながら読書をする。水風呂に入ると読書が捗るのだ。深い内容の本もどんどん読めてしまう。
六月の上旬ではさすがに冷たくて水風呂に入ることはできないが、今月下旬には入れるだろう。賃貸マンションの狭いユニットバスで足を折って水に体を埋めながら今年の夏はトルストイの『戦争と平和』を岩波ワイド文庫で読むつもりだ。
国語塾の教師は色々な問題集や過去問の文章を読むが、それだけでは足りない。自分の魂のための読書をしなくてはならない、と考える。仕事のための読書に留まることなく読書により自分の心を耕さねばならない。
わたしが述べているのは自己啓発のための本を読むことではない。古典を読むべきである。自分の精神の成長のためのホンモノの本を読むべきだ。だが、ホンモノの本を読んだからといって次の日から人生が好転するわけではない。
むしろ、問題、課題が出来するかも知れない。ただし、古典を読むと問題、課題に意味を見出すはずだ。ある社会的に高い立場にある人が次のように言ったそうだ。すなわち、人生に意味などない、人は死んだらゴミになる、と。さような考え方よりも人間を堕落せしめる考えはない、と思う。
アウシュヴィッツ収容所での出来事だったと記憶するが穴を掘らせて、穴を埋めさせて、という作業を延々とやらせたら捕虜は気が違ってしまったという。
人間にとって意味ほど大事なものはない。それゆえ、どんなに辛い試練にもそこに意味を見出すことができれば人は耐え得る。
さらにヒルティは「どんなに辛いことでも、そこに罪が混じっていなければ耐え得る」と記した。人間は意味と良心の支えによって苦しみに耐え得るのだ。
そういう次第で、人間にとって、宗教、哲学、文学は重要だ。仕事にかまけて、教会へ行かず、考えることを放棄し、読書をしなくなってはいけない。仕事のためにではなく、趣味のためでもなく、魂を養うための読書が今、求められている。
流行りの本などではなくて古典を読むべきである。それでは、どういう古典がいいのか、とあなたは尋ねるのか。わたしは聖書を読みなさい、と答える。聖書は神が人類に与えた汲めども尽きぬ巨大な知的財産だ。
宗教改革によって聖書が教会から一般の人々の手に渡ったとき、人々は初めて「自分の魂で読む」という営みを始めた。それは単なる知識の獲得ではなく、自分の人生を自分の言葉で引き受けるための読書だった。
我々が勉強し、考え、古典を読み続けなければならない理由は実はそこにもある。人間は意味なしには生きられない。そして意味は外側から与えられるものではなく、自分の魂が深いところで触れた言葉から静かに立ち上がってくる。
だからこそ、わたしは聖書を読む。『告白』のような古典を読む。そして、わたしの塾に来る子どもたちにも聖書に限らず「意味を見失わないための言葉」があることを伝えたいと思っている。
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