読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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蝉の声が聞こえない。教室は無闇に涼しかった。パトカーのサイレンが何だか耳につく。夏休み最後の日、わたしは小学五年生を前にして熱く語っていた。日本人論について、だ。話はわたしの大学時代に遡る。
わたしは刑法ゼミの皆と夜の居酒屋にいた。岡野先生を囲んで宴は和やかに始められた。飲み会なので皆、ビールを頼んでいた。ビールを片手に持って「乾杯!」という流れになるはずだった。
大学の飲み会のこととて不穏な空気があるはずはなかった。けれども、わたしは妙に喉が渇いていた。息苦しかった。できれば下宿に帰りたかった。寝転んで漫画でも読みたかった。
いよいよだぞ。わたしは胸中で呟いた。ゼミの女の子が飲み会に華を添えていた。それでも、わたしだけは変に冷めていた。皆の哄笑が遠くで聞こえる。
わたしは東京都心の洒落た酒席で野暮なことを言わねばならなかった。あるいは言わずに済まそうか。いや、迷いはなかったはずだ。わたしは機会を窺っていた。どのタイミングで言おうか。「水上君、水上君てば」誰だろう。
刑法ゼミの同期の女の子だった。わたしは女の子の目を正視できなかった。化粧の所為か、やけになまめかしく見える。高校生の時、気になる子を見て耳朶まで赤くなったことをからかわれたっけ。「水上君、飲み物をどうするの」「ビールでよかったわよね」嗚呼、遂にこの時が来たか。
言わねばならぬ。公衆の面前で告白しなくてはならなかった。恥ずかしくないと言ったら噓になるが、すでに記したように、わたしの決意はこの期に及んでも変わらなかった。肚を括った。
「ウーロン茶をお願いします」
ぎこちないが精一杯の態度でどうにか言った。悔いはない。わたしの尋常ではない口吻に尋ねた女子大生は気圧されていた。それを聞き咎めたゼミの先輩は「なぜだ」と聞いた。よし、ここで一番肝腎なことを言ってしまおう。
「わたしはクリスチャンです。信仰上の理由で酒は飲みません」と一気に言った。言ってしまった。
すぐに野次られた。「お前はクリスだな」と。同期の女の子は黙ってウーロン茶を注文してくれた。サンキューと言おうとしたが飲み下してしまった。
横に座っていた先輩は「水上、最初のグラスの一杯だけは口を付けろ。残りは俺が飲んでやる」と言ってくれた。先輩の気持ちを汲んで最初の一杯だけ口を付けた。なぜだか温かいものを感じた。この先輩の顔も名前ももう忘れてしまった。
後日談になるが、この光景を見ていた同じゼミ生の親友は誰もいないところで「水上君、君は大した奴だ」と評してくれた。爾来、彼はわたしと食事を共にするとき、わたしが「飲んでいいよ」と言っても、酒を控えるようになった。
わたしの投げた小石が池の水面にわずかな波紋を作っていった。語らざる伝道である。彼は一度教会の礼拝にも出席してくれた――その彼も今何処でどうしているのか分からない。
教室にいる小学五年生は目をキラキラ輝かせて聞いていた。小学五年生の彼にまさか「大した奴だ」という言葉は期待していない。
ただし――神よ、わたしは耳朶まで赤くしながらも、ウーロン茶を啜りながらも、野次られながらも、愚直に俗世間を渡ってまいりました。ただ、彼の日には、あのときはよくやったと、忠実だったと、お褒めください。
小学五年生には駄目押しで、わたしが酒に加えて煙草も吸わず、コーヒーすら飲まないことを語ったら「コーヒーも」と呟いて驚きつつも呆れた顔をしていた。
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