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その日の朝、ムカイは上機嫌だった。珍しいこともあるのだ。あの偏屈で妙に生真面目なムカイが鼻歌でも歌い出しそうなのだ。何かいいことでもあったのか。いずれにしろ険悪な雰囲気よりは和気あいあいとした方がいいに決まっている。そのまま上機嫌が続けば、われわれも気持ちよくできるはずだ。上機嫌歓迎だ。
後から考えると奇蹟の一日だった。後にも先にもあんなムカイは見たことがない。ムカイは冗談を解す。中指を立てられても破顔一笑に付す。だが、筋がとおらないことには容赦しない。相手が誰であろうと噛みつく。会社の責任者も例外ではなかった。さようなわたしの思いと裏腹に今日はやけに機嫌が良い。一瞬これが嵐の前の静けさというものか、と縁起でもないことを考えるが首を振る。
あの日、もし、わたしが会社へ遅れて行っていたら、この笑顔は見られなかったに違いない。だが、あの一日に限っては、わたしには正当な理由があった。そうであってなお、何とか間に合わせたのだ。今朝は大変だったのだ。
通勤のときにヒッチハイクをして会社に這う這うの体で辿り着いたのだ。信号待ちしている車を見るや、手当たり次第に乗せてくれ、と頼み込んだ。驚いているドライバーの表情に頓着することなく拝み倒してようやく乗せてくれる車を見つけたのだ。会社の最寄りの交差点で降ろしてもらった。すぐに走った。
息が切れても走りに走った。体操が始まっていた。始業時刻はとうに過ぎていたが、まだ体操中だったことが不幸中の幸いであった。事務所に行って事情を話したがヒッチハイクということに驚いていた。そして呆れていたが事務員は微笑みながら「体操始まっているよ」と言ってくれた。
体操している社員は体操のことなど上の空で、遅れてきたわたしの事情に興味津々だったみたいだ。ヒッチハイク!さような話は社員の連中の大好物だ。色々と噂になるだろうな、と思ったが悪い気はしなかった。
実は今朝方、通勤の途中でバイクのタイヤがパンクしてしまったのだ。最寄りのコンビニの店員に事情を話して預かってもらい、その足で会社へ向かった。足がなかったのでヒッチハイクに相なったという次第だ。
わたしは息を弾ませながら体操を終えて、すぐにトラックに乗り込んだ。運転手のムカイは時間にうるさかった。乗組員が揃って早々に会社を後にして現場に向かった。
ムカイは今朝の遅刻の件については触れなかった。わたしも弁解はしなかった。様子が何処か違う。何なら嬉しそうだ。理由を尋ねても良かったが藪蛇にならないとも限らない。そのままにしておくのが無難だ。
彼の操縦するリフトはクルクルと動いてピタッと停まる。それは芸であり術である、と評しても大仰ではなかった。ムカイは作業員のやる気のない態度に我慢しなかった。作業員は彼の手駒のひとつに過ぎなかった。
ムカイは嫌われていることを自覚していた。俺は知っているぞ、ということを乗組員に繰り返しくどいくらい仄めかしていた。だが、それは喉の渇きを癒そうと海水を飲んで却って激しい渇きを覚えるのに似ていた。
トラックは伏見通りを走っていた。人の心の中は分からない。踏み込むべきでもない。ただ、あの日、ムカイが上機嫌だったことは動かない。わたしはパンクしても休まずムカイと仕事をすることを選んだ。それが上機嫌と関係があったのかなかったのかはムカイのみ知っているはずだ。
ムカイは仏頂面で今日この時もトラックのハンドルを握っているはずだ。わたしのことなんぞ綺麗さっぱりと忘れて。
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