わたしだけのサンクチュアリ

現場からの帰り道、わたしは車窓からぼんやり河を眺めていた。ウカワと運転手はサッカーの話題で盛り上がっていた。トラックは長く続く単調な堤防の道を会社に向けて走っていた。

わたしは大学生の兄ちゃん姉ちゃんが驚くほどの給与を家庭教師で稼いでいた。作業員の給与は低く、運転手の給与が羨ましかった。さりとてトラックを運転する技術はなかったし、免許を取ろうとも思わなかった。

わたしは中学受験の国語を小学生に教えていた。小学生と勉強をするのは愉しかった。生徒たちが可愛かった。保護者の「先生、よろしくお願いします」という言葉も嫌いではなかった。

家庭教師の仕事は厳しい試験に合格できなければ立ち入ることができないわたしだけのサンクチュアリだった。

会社での渾名は「センセ」に決まった。だが、わたしは知っていた。「センセ」には軽い軽蔑の調子が含まれていることを。思うに渾名というのはそういうものかも知れぬ。

仕事を終えて会社を後にすると、コンビニに向かった。コンビニのトイレでアメリカのヒーローのごとく作業服からスーツに着替えた。トイレは冷たく汚かった。作業服は汗臭く、スーツに臭いはなかった。

コンビニでは総菜パンを買ってカウンターで食べていた。学校帰りの女学生と鉢合わせになることもあった。彼女たちの黄色い声を疎ましく思った。夕方になるとコンビニを出てバイクで家庭を訪問していた。

本業は始業時間が早かったので終業時間も早かった。空いた時間を有効に使いたかった。老後のことを考えると百円でもお金を稼ぎたかった。

トラックはゴミ収集の現場に近い弁当屋に必ず寄ったものだ。しかし、他の作業員のように割高な弁当には手を出さないでいた。コンビニで小さなおかずを買って用意した玄米と一緒に昼食にした。

家庭教師の授業が終わると闇の中をバイクで走った。都会の空に星を捜したが、何処にも見つからなかった。時に道に迷ったりもした。帰宅すると、へとへとになった。支度が面倒なので近所の定食屋で遅い夕飯を済ませた。よく眠れた。

職場では無力だったわたしだが授業ではそうではなかった。ある時、職場で小テストを自分で解いて確認していたら、ウカワが興味深げに覗き込み、よせばいいのに解いていた。途中で鉛筆が止まった。

「小学生のテストだ」というと驚いていた。こんなものを小学生が解いているのか、というウカワは思ったに違いあるまい。ただ、さすがに、その言葉を口にすることはなかった。あながち見当違いの推測ではないと思う。

わたしは教え子のためにワードでいつも小テストを作ってあげていた。そして授業の冒頭で解いてもらっていた。生徒たちの成績が上がるための工夫だった。小さな生徒が喜ぶ。それが嬉しかった。

いつもは辛口のウカワがにこりともせずに感心していた。嬉しかった。そして彼らしい、とも思った。

ウカワよ、解けるものなら解いてみろ。

わたしの渾身の力作がお前に解けるものか。

わたしのひたむきな努力が分かるものか。

わたしの孤独がお前に分かってたまるものか。

わたしは何故だかいらいらして心の中で、そうつぶやいていたかも知れなかった。同時にウカワが小学生の小テストで苦戦しているのを小気味いい、とさえ思った。

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