その一文を推敲したか?

ある塾のブログに次のような文が掲載されていた。

《思うに、個人塾は「何でも屋」であるべきだと思う。生徒からしたら英語だけ、数学だけできればいいというものではなく、どの教科もできるようになりたいはずだ。》

「個人塾は『何でも屋』であるべきだ」という主張そのものについて、わたしは賛成しかねる。しかし、少なくともこの主張自体を論理的に破綻したものと断じるつもりはない。

問題にしたいのは、その内容よりも、これを文章として少なくない期間、公にしたことである。

第一に、《思うに、個人塾は「何でも屋」であるべきだと思う。》という一文には、「思うに」と「思う」が重複している。

「思うに」が書き手の判断を導入する表現である以上、文末の「と思う」と意味の上で重なり、冗長に感じられる。

むろん、この程度の重複だけをもって誤文とする必要はない。だが、削除しても意味が失われない語が冒頭に置かれ、その結果として同じ語が一文の中で二度現れている。文章を磨くという観点から見れば、少なくとも推敲の余地がある。

「個人塾は『何でも屋』であるべきだと思う。」で十分である。あるいは、冒頭の「思うに」を残すのであれば、「思うに、個人塾は『何でも屋』であるべきなのだ。」とすればよい。

要するに、問題は「思う」という語を使ったことではない。同一の意味作用を持つ表現を、ほとんど無自覚に重ねていることである。

しかも、この文章を書いているのは、単なる私人ではない。塾長であり、しかも生徒に国語も教える立場にある人物である。

その人物が、

《生徒からしたら英語だけ、数学だけできればいいというものではなく、どの教科もできるようになりたいはずだ。》

と書くのであれば、なおさら自分自身の文章に対しても相応の注意を払うべきではないか。

他者について「どの教科もできるようになりたいはずだ」と述べることと、自分が国語を教える者として十分な文章を書けていることとは別問題である。

そうであるならば、少なくとも後者について自らの文章を公開する前に推敲する責任はあるだろう。

わたしが問題にしているのは学歴でもなければ、その人物の人格でもない。公開された文章そのものだ。

したがって、《思うに、個人塾は「何でも屋」であるべきだと思う。》という一文には少なくとも十分な推敲を経た文章とは言い難いものを感じる。

むろん、一つの重複表現だけから、その人物の読書量や思考力について断定することはできない。また、そこまでの推測をするつもりもない。

ただ、文章を職業上の道具として使う者が、こうした冗長さを推敲によって取り除かないまま公開していることについては批評の対象になり得る。

わたしの仕事について注文をつける以上、自分の仕事についても注文を受ける覚悟が必要である。わたしは自分のブログに対する批判を拒むつもりはない。むしろ、具体的で建設的な批判は歓迎する。

ただし、その場合には、こちらも相応の精度で反論する。文章について論じるのであれば文章そのものを示して論じればよい。論拠があるなら、こちらも論拠をもって応じる。

匿名の陰からではなく、責任の所在を明らかにして発言するべきである。批判するのであれば、こちらも遠慮なく批判する。

※付記 本稿はわたし自身の主張をもとにAIとの対話を通じて仕上げたものである。最終的な内容についてはわたし水上が責任を負う。

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