一生消えないわたしが背負う十字架

先程まで保護者の方とメールでやり取りをしていた。昨晩、スマホにショートメールが届いていた。それゆえ、朝に返信したのだ。普通の塾長なら「面倒くさいなあ」と思うのだろうが、わたしはそうではない。文章を書くのは苦にならないからだ。事実、保護者の方へメールを送信してからすぐに本稿の執筆に取りかかっている。

その保護者の方は真剣にメールを書いておられるのが判るから、こちらも真摯に対応するのだ。保護者の方は少なくない期間、我が塾へ子どもを通わせているのだ。理解があるのだ。わたしは古参の生徒を大事にする。なおかつその保護者の方の意向も尊重する。

くだんの保護者の方はわざわざわ我が塾へ問い合わせている。それは感謝すべきことなのだ。考えてもみるがいい。我が塾に見切りをつけたらそもそも問い合わせて来ない。ある日、送金が停止される。そして、来月からは通わない旨のメールが届くのだ。考えられる限りの最悪のシナリオだ。

この保護者の方は子どものためになるよう手間と閑をかけて塾と掛け合っているのだ。わたしはその保護者の方の心情が分からないほどの石頭の分からず屋ではない。その保護者の方の子どもは来春の入試で結果を出せるように小学五年生のときから当塾の授業を受けてくれているのだ。

その子どもは最近、ある学校の過去問でいい点が取れなくて癇癪を起した。問題用紙に八つ当たりしたのだ。問題用紙を何度も繰り返し拳で殴った。態度も悪かった。昔のわたしなら問題用紙を取り上げて「これは何だ。お前の態度は何だ」と詰問していたに違いなかった。

けれども、わたしは叱責しなかった。しばらく静観した。様子を見た。くだんの生徒は悔しかったのだ。なかなかいい点が取れないことに落胆していたのだ。その原因は生徒の努力不足ももしかしたらあるかも知れない。だが、究極的にはわたしの教え方のまずさと関係していないと言えないだろうか。

それにもかかわらず生徒を叱る、というのは道理に合わない。あと十年若かったら悪い態度を見て激怒したはずに違いないのだ。しかし、これまで生徒諸君を叱っていいことはなかった。子どもは褒めて伸ばすべきなのだ。そして、教師自身が自分の教え方を反省すべきでもある。

地元の豊橋市の学習塾に講師として勤めていた頃、中学生に英語を教えていた。英単語の小テストになかなか合格しなかった生徒にコピー用紙をワンカートン取り出して教室の床に叩きつけた。「覚えられないなら、これに書いてこい」と。その時の生徒の怯えたような、ひどく困惑しているような、表情を忘れられない。生徒は悲しい顔をして黙ったままわたしの授業を受けていた。相手はまだ中学一年生だった。

わたしは生徒諸君に舐められたくなかった。それゆえに大きな過ちを犯した。そのクラスの中学生は一人を残して皆、退塾してしまった。原因はいうまでもなく、わたしの過剰な叱責である。わたしは、まだあどけなさが残る中学一年生の笑顔を一瞬にして消し去ってしまった。

以上のような教師である前に人間として許されない行為をした。生徒を傷つけた。わたしも傷ついた。したがって、生徒の態度が悪い場合、言葉で諄々と注意するのだ。それでも分からない、という塾生は我が塾にはいないはずだ。

豊橋市の塾で子どもたちを怒った忌まわしい経験はいつまでもわたしの脳裏に刻まれることだろう。嫌な想い出と今後も死ぬまで付き合わねばならない。善行と相殺してちゃらにすることはできない。一生消えないわたしが背負う十字架だ。

名古屋での我が塾ではできるだけ多くのいい想い出を作りたい。だから今日も、子どもたちに敬意を払いつつ教えるのだ。子どもたちを叱らず、褒めて育てるのだ。

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