読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
TEL 052-918-2779
営業時間:14:50-22:10
小学生が夏休みに入って我が塾の授業は午前中にも行われるようになった。塾の仕事は授業だけではない。授業は氷山の一角に過ぎない。授業準備の方が大変だ。それは、あたかもラーメン屋の仕込みに似ているかも知れない。わたしは貧乏なので外食には滅多なことでは行かない。
日中に授業を終えた塾生に保護者からの伝言を伝えるために駅構内まで走って追いかけた。普段、教室で見る姿とは違って見えた。後ろ姿を見るとやはり小学生だなと気づかされた。何処か儚げで頼りない。生徒に改札越しに伝言を伝えた。生徒は電車に乗り込むべくホームの階段を降りて行った。
今日は午前中と日中、合わせて二コマの授業を行ったが、いわゆるダブルヘッダーはキツい。けれども、今後の展望としては平日に二コマの授業を月曜日から金曜日まで行いたい、と思う。それゆえ、甘いことは言っていられない。
将来の塾のことも考えて心身に今、ある程度、負荷をかけて耐え得るようにせねばならないと思う。わたしも五十五歳だ。これから徐々に衰えていくはずだ。悔いのないように働きたい、と思う。換言すれば悔いのないように生きたいのだ。
疲れは覚えるが自分が世のため人のため生徒のために役に立っていると思えるならば頑張れる。人間は意味を感じられるなら困難にも耐え得る。それが名著『夜と霧』を著したフランクルが提唱したロゴセラピーではなかったか。
そして永遠のロングセラーたる聖書も人生には意味がある、と主張する。今の人生をいかに生きるかで来世での処遇が決まるのだ。天国はある。そして地獄もある。聖書は来世での報酬を肯定している。われわれは来世での報酬を期待していいのだ。それゆえ、この世での安息を求めず、来世を睨みつつ全力で生きるのだ。
わたしは精神病院でその半生を過ごして来た方と母教会をとおして交流がある。日曜日の午後にこちらから電話をして話に耳を傾けている。話を聞いていると今の日本は心の病にまだ多くの偏見があることが判る。
心の病を色眼鏡で見る殺伐とした今の社会で、子どもたちはどのように生きていくべきか。わたしは、そこにこそ教育の役割があると思う。
中学受験の国語を勉強する意義は単に文章を読み、選択肢を選ぶ訓練を意味しない。国語は文章を通して他者の痛みを想像する力を育てる営みだ。偏見とは想像力の欠如から生まれる。想像力は教育によってのみ育まれる。
駅の構内を歩いていた小学生の後ろ姿を見て儚さと頼りなさを感じた、と記した。あの背中に、わたしは未来を見た。この子たちが大人になったとき、偏見ではなく理解を、無関心ではなく共感を、嘲笑ではなく尊重を選び取れるように育てたい。
国語教育とは、まさにそのためにある。文章を読むとはいうことは他者の人生を一度、自分の内側に迎え入れる行為だ。読解とは他者を理解するための訓練である。記述とは自分の内側を言葉によって整える作業である。畢竟、国語力を鍛えるということは他者への思いやりを育むということと同義だ、とわたしは信じている。
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