読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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今朝もAIと話していた。不特定多数を対象に正しさを振りかざす塾のブログを批判して溜飲を下げていた。正しさを言葉にするより実践する方が難しい。わたしは未熟な正義感が嫌いである。むしろ、自分の弱さを曝け出しているような人をよく理解する。
もちろん、わたしは正義の人ではない。さりとて悪党でもない。人の好い一介の国語塾の塾長だ。世間様に向けてあえて物申したいわけでもない。けれども自分も叩けば埃が出る存在なのにそれを棚に上げて俺は正しくてお前は間違っている、という態度には反撥を覚える。
こう書き出してみたが、あまり気分がいいものではない。本稿はボツ原稿になるかな。日の目を見ないかな。AIから「雑感を避けようとすると、あなたの文章は死ぬ」と背中を押されて本稿を書いている。
梅雨が明けて暑い毎日が続く。夏だから暑いのは当たり前だ。暑さを乗り越えるために色々と工夫できる。暑い最中に如何にして涼を取るか。例えば、水風呂はどうか。浴槽に水を張って、そこに身体を埋めるのだ。これを真冬に行ったらかなりの変人だろう。夏だから心地いいのだ。
海やプールに行くのもいいだろう。わたしは小学生の頃、サッカー部に所属していた。そして夏だけ、水泳部員になってプールで泳いだ。背泳ぎが得意で市の大会に出場しないか、と顧問の先生から声を掛けてもらった。だが、夏は毎年、浜名湖にあるキリスト教のキャンプに参加するのが恒例で市の大会に出場は果たせなかった。
浜名湖の近くにある丘の上のキャンプ施設に行くのは気が進まなかった。むしろ行きたくなかった。東海地区の教会から集う子どもたちがキャンプ場で過ごすのだが、いい思い出はない。人間関係が得意ではないわたしには苦痛を感じる場所以外の何物でもなかった。
わたしの信仰は未信者には理解されぬだろうなという思いを常に抱かざるを得なかったが信者にも理解されなかった。多くのキリスト教徒の家庭の子息が集まるのだが、そして子供たちははしゃいで騒ぐのだが、世界は神とわたし独り切りだった。キャンプの趣旨は信仰継承だったはずなので図らずもその趣旨には適ったのだった。
キャンプは嫌いだったが必ず出席せねばならなかった。わたしは教会の牧師の息子だった。わたしが参加しないと示しがつかないのは明らかだった。もちろん、愉しい場面もあった。皆で浜名湖で海水浴に行ったことを思い出す。
海水浴?湖なのに。然り、浜名湖の水は塩辛いのだ。そして蛇足になるが浜名湖は汚かった。海水浴場には高い木製の塔が建てられていて、そこから下に飛び込むのだ。これが面白かった。一度、足を滑らせて墜落して事故になりかけた。人がいないところでほっとした。
わたしはキャンプ場の悪口を書きたいわけではない。断固断じて否だ。それではキリスト教の信仰を疎ましく思っているのか。それも違う。誰にでもある少年時代の自己疎外の記憶を記録しておきたいのかも知れない。正確に記すとそれは信仰ゆえの自己疎外だったのかも知れない。
それはキリスト教信仰にとっての内憂外患だった。それは、とりもなおさずわたしの青春時代、つまり疾風怒濤の時代の序章だったのだ。あるいは、わたしの宗教二世問題とも言い得るのかも知れなかった。
海水浴から帰る夏の国道は距離にしたら短かったが、わたしにとっては、うねうねと延々続くように感じられた。退屈で辛かった。そして次のプログラムが始まることに緊張感もあった。時間が止まってほしかった。浜名湖に係留しているヨットを車窓から虚ろな目で眺めていた。
こんなことを記すとお叱りを受けるかも知れぬが、当時のわたしは中学受験でもしたかったはずだ。夏休みの間にも何かに自分を打ち込む、ということであの頃のわたしは救われたのかも知れない。幼い魂には居場所が必要だ。我が塾が少年少女の居場所になれれば嬉しい。
読者諸賢のご子息ご令嬢も実はこの夏まさに行きたくない場所に必ず行かねばならない羽目に陥っているかも知れない。夏休み中の子どもたちの心の状態に平時よりも配慮することが必要だと思う。我が塾も生徒の様子を注意して見ていくつもりだ。
現在、わたしは夏だからといってキャンプ場に行かなくてもいい年齢になった。五十五歳で、子どもたちを引率する立場にあるならいざ知らず、子どものキャンプに行く人間はいまい。貧乏暇なしで行きたい場所には行けないけれどエアコンの効いた教室で山下達郎の音楽を聴きながら本稿を書けるひとときは悪くない。今の境遇を神に心より感謝して擱筆したい。
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