令和八年熊本地震について思うこと

本稿は令和八年熊本地震の事実を整理するものではない。あくまで、わたしが感じた不条理と宗教的な意味について読者諸賢と共に考える文章である。

わたしは災害の事実そのものよりもその背後にある説明できない不条理に心を奪われる。そして、その不条理をどう受け止めるべきかを考えるとき、宗教的な視座を避けて通ることはできない。わたしはキリスト者であるからキリスト者として今回の不条理について考察する。

報道によれば被害があった地域では現在も避難生活を強いられている、という。酷暑のなか電気が供給されていない場所があり、被災したほとんどの場所で水の供給も滞っている由。

電気が正常に供給されていないので、いまだエアコンが使えない地域がある。断水も復旧の目途が立っていない。頭や体を洗う水がない。汗が付いている衣類の洗濯もできない。悪臭立ち込めるトイレを流す水もない。あるのは飲料水だけだ。しかも配給制で長蛇の列ができている。

わたしは夏には毎日、水風呂に入っている。それゆえ水がない生活は想像するしかないのだが、さぞ辛いことだろうと思う。炎天下の許、水を求めて並ぶだけで額から汗が滴り落ちるのではあるまいか。一刻も早い復旧を祈念する。

わたしは熊本で地震が起きた際に名古屋は平針の教室で授業をしていた。授業を終えて生徒と話すと熊本で地震が起きた、という。彼はニュースを早い段階で知っていた。彼によれば震度は七ということだった。

その時、わたしはふーんと何気なく聞いていたのだが生徒を送ってから住まいに戻って動画サイトを視聴すると大変な被害が出ている、とニュースは告げていた。知らぬうちに遠く離れた熊本で未曾有の大地震が起きていたのだ。生徒の情報は正確だった。

特に印象に残っているのがイオンモール熊本だった。地震が起きてしばらくしてから、くだんの商業施設で爆発が起きた。従業員による避難誘導が功を奏して多くの客は災難を免れた。しかし、後から判ったことだが従業員が亡くなっている。

わたしはこの報道を見て、しばし言葉を失った。そして、今回の件については急いで言葉を紡ぐことを控えようと思った。われわれは、ともすると事件にすぐ反応する。そうであるがゆえに空疎な言葉が世界に溢れることになるのだ。さように思っていたので今になって今回の災害について記しているのである。

イオンモール熊本での出来事は令和八年熊本地震を象徴する大惨事だった。日本中の注目が集まっていた。画面越しの映像は、どこか現実感を欠いていた。わたしは、その距離感そのものに現代社会の危うさを感じた。

しかし、そういうわたしの思いとは裏腹にマスコミは競って詳報した。ニュースは会社の指示で地震の後に店舗へ戻った従業員が不幸にも爆発に巻き込まれてしまったことを報じていた。戻って行った従業員は恐らくは何が起こったまま理解できずに死んでいったに相違ない。本人はむろん遺族もさぞかし無念だったことだろう。

今回の大地震の原因は気象庁をはじめ関係各機関が調べ、解析して原因は究明されるであろう。そして、やがて解析の結果は落ち着くところに落ち着くだろう。けれども、気象庁は前回の地震から十年後というタイミングでなぜ地震が改めて起こったのか、そもそもの究極的な原因は説明できない。

なぜ、店に戻った従業員が亡くなったのか。なぜ、他の従業員でなく、わたしの子どもでなければいけなかったのか。事故だからか。あるいは運が悪かったからか。つまりは偶然だったからか。いずれも説明になっていない。少なくとも遺族は納得できない。知りたいのは地震発生のメカニズムではない。不条理の意味こそ遺族は知りたいはずなのだ。

現代のドグマである因果律では今回の不条理を説明できないのだ。科学的世界観は時に無力だ。そうであってなお現代の識者はいずれ時を経れば偶然を説明できるとさえ自惚れている。それゆえ、今回の不条理を事故であると説明するのだが遺族はその事故に至った明確で納得できる理由が欲しいのだ。わたしの子どもが犠牲になった納得のいく理由が知りたいのだ。その問いは、わたしの胸の奥でも静かに疼き続けている。

今回の大地震には神の深謀遠慮が働いている、とするのが宗教的な視点である。わたしもそう信じる。大地震に何の意味もないという哲学的な解釈は何の慰めにもならない。さような解釈は無慈悲で何の希望も生み出さない。ここが無神論の行き止まりである。無神論者は因果律の説明はできるが不条理の説明はできない。ここに神を認めないヒューマニズムの限界を見る思いがする。

宗教は無神論の限界を超えてくる。信仰者はどのような現象にも意味がある、と信じる。雨が降ったことにさえも意味を認めるのが宗教である。それゆえ宗教に偶然はない。すべてが必然なのだ。つまりは皆、神の摂理のうちにある。今回の大地震にも意味があるのだ。それは一概に神の裁きというだけで片付けてはいけない。わたしに言い得るのは神の深謀遠慮があった、という一事だ。

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