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若い頃、父はすきま風が吹くようなプレハブの教会で牧会をしていた。礼拝は父と信徒ひとりという時もあった。生活費を稼ぐため、バイクで新聞配達をしていた時期もあった。雪国の新潟では新聞配達も楽ではなかったはずだ。
教会開拓時代に金が足りない時があった。若い父は懸命に働いていたが一度だけ実家の祖父を頼った。祖父は牧師を辞める代わりに金は用意する、と約束した。父は撥ねつけた。ただただ神に頼った。
親父は信仰一本でこの俗世間を生きてきた。新潟は亀田で十二年間牧会をして家族を食わせてきた。わたしが小学四年生のとき、愛知は豊橋に引っ越して牧会を続けた。
母も親父に従った。親父は神に従った。先日、その父も八十四になった。母も親父に従った。親父は神に従った。
教会員に赤ん坊が生まれれば献児式を行った。教会員が結婚すれば嬉々として司式をした。教会員が天に召されると遺族とともに涙を流した。揺り籠から墓場まで教会員に寄り添った。それでも時に誤解された。人が好いことを揶揄された。
ある商取引で後払いにすればよいものを父は先に支払ってしまった。口の悪い教会員に「水上牧師は単純だ」と言われたことを気にしていた。
教会堂が手狭になって老朽化したとき、牧師館を無くして教会堂を広く建て替えることを躊躇わなかった。会堂から離れた場所に自腹で土地と家屋を買った。中古だった。
教会堂は神さまの許、教会員皆で建てた。父はそう考えていた。だが、その考えに反撥する者もいた。しかし、父は教会堂は神さまと教会員が協力して建てた、と言って譲らなかった。
教会堂を建てる時にある銀行が融資すると言ったが融資は見合わせになった。会堂建築のお金の支払いが迫っていた。当てにしていた父は激怒した。後から梯子を外した銀行に乗り込んで「責任者を出せ!」と言ったそうだ。怒鳴ったかも知れない。礼拝の説教で語っていた。
支払いの件は父が所属する教団から融資がおりて事なきを得た。父は心底安堵したに違いない。やがて教会堂の基礎ができて鉄骨が組立てられていった。危ないから上らないでください、と念押ししたにもかかわらず一部の教会員が鉄骨に上っていた。
遂に教会堂が完成した。吹き抜けの礼拝堂で天井が高かった。礼拝堂の奥は講壇が置いてあるステージのようだった。側面には小窓が多く設けられていて窓を開け閉めすることができた。
二階には幾つもの部屋があった。物置もあればゲストルームもあった。風呂とトイレも完備していた。一階のトイレは男女別々になり、車椅子用のトイレも拵えてあった。
早速、献堂式を執り行った。市内の教会からはじめて遠方の教会からも多くの人々が集まった。教団の理事長まで呼んで父は嬉しそうだった。午後は立食パーティーで銘々が歓談していた。
名古屋からわたしの兄貴分も祝福しに駆けつけてくれた。一緒に喜んだ。それから数年して兄貴分は名古屋の病院で若くして息を引き取った。
兄貴分は「まだまだ死ねませんよ」と父に語っていた。どういうつもりでそう言ったのか。自分の死を予感していたのだろうか。けれども、われわれは知っていた。彼が癌であることを。葬儀は新会堂で執り行われた。
毎年、父は大工の親方を礼拝に招待した。その都度、感謝を伝えた。職人気質の親方は過度に利潤を追求しない建て方をした。お陰で教会堂は破格の値段で建てることができた。
謝辞を述べるために教会員の前に立つと、親方は照れくさそうに話した。毎年、礼拝に顔を出してくれた。教会員は親方が好きだった。親方も満更ではないようだった。
後年、父は田舎にある大工の親方の自宅に行って何度も軽トラックを借りた。親方は快く貸してくれた。それどころか同乗者に缶コーヒーを与えた。そして去る時に決まって「いつでも来てくれよ」と言った。
やがて親方は教会に来なくなった。父は退いて現在は教会堂を建てた大工の親方の名前も顔も知らない若い牧師が牧会している。教会の看板は新調され、ホームページも出来上がっていた。
その間、わたしがよく知っている教会員が次々に天に召されていった。気心の知れた教会員は櫛の歯が欠けるようにいなくなっていった。会堂が大きい割に教会員は少なくなった。今や父や母も天の御国に思いを馳せているはずだ。
最近の教会のホームページを見ると、集合写真が掲載されていた。教会員が写っていた。知っている顔、知らない顔と一緒に父母も写っていた。桜が満開だった。
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