大切なものは、目に見えない

読書は時空を超える。われわれは令和の時代に居ながらにして過去の事件を知っている。江戸時代の出来事を現代人が知っているのは当時の出来事を書き残した人がいるからだ。つまり読書は時間を超えている。

それでは空間的にはどうか。やはり読書は空間を超えている。日本に居ながらにして海外の文学に親しむことができる。海外の名作を翻訳をしてくれる翻訳家がいることでもそれは分かる。

以上の組み合わせで海外の古典を読むこともできる。読書は時間も空間も超えてしまう。よくよく考えてみると、これは記憶についても同様なことに気づく。

記憶は時空を超える。わたしは少年時代に母の実家に何回も行ったが庭に植えてあった無花果の木をありありと思い出すことができる。わたしは五十五歳の初老の独身男だが少年時代の過去をまざまざと思い出せる。すなわち、時間を超えている。

それでは空間的にはどうか。やはり記憶は空間を超える。わたしは名古屋の平針に居ながら遠く離れた実家の両親の顔をありありと思い浮かべることができる。何を当たり前のことを記しているのか、と顰蹙を買うかも知れない。だが過去はないものだ。

過去は現在、存在しない。けれども、われわれには記憶があるから過去は存在しない、と言われても釈然としない。物理学的には過去は消えている。しかし精神の領域では、過去は消えていない。

精神は物理的な存在とは別の法則で動いている。わたしが母の実家の無花果の木を思い出すとき、その木は今わたしの眼前に確かにあるのだ。

科学は記憶を脳の活動として説明する。 しかし科学は記憶がなぜ、わたしにとって大切なのか、なぜ過去が現在に影響を与えるのか、なぜ精神が時空を超えるように働くのかを説明できない。

科学が扱うのは物質であり、 精神が扱うのは意味である。意味は脳の中には存在しない。 意味は精神の内奥にのみ存在する。

記憶は脳が素材を保持し、精神がその素材に意味を与える営みである。それゆえに記憶は精神の働きだ。 SF小説にタイムマシンが登場するが、どれほど技術が進んでも過去へは行けない。過去は物理的な場所ではなく、精神の内部にのみ存在するからだ。

繰り返すが過去は物理的な場所には存在しない。過去は精神の内部にしか存在しない。だから、機械では到達できない。しかし、人間はすでにタイムマシンを持っているとも言い得る。それが記憶であり、読書だ。

記憶とは、われわれが生きてきた時間の堆積である。だが、その堆積は物理的な世界には存在しない。精神は時間の流れとは別の法則で動いている。だからこそ、わたしは少年時代の庭の無花果の匂いを五十五歳の初老の今になっても、まざまざと思い出すことができる。

読書は他者の精神を時間を超えて受け取る行為であり、記憶は自分自身の過去の精神を現在に呼び戻す行為である。いずれも時空を超えている。目に見えるだけが世界ではない。例えば自由というのは厳然たる精神的事実だ。目には見えねど確実に存在する。

ところで、自由と計測は矛盾した概念である。科学は計測を本質とする学問である。 一方、自由は計測できない精神的事実である。自由は計測されたくないと言っている。

科学が進むほど、社会は測れるものを価値の中心に据え、 測れないものを周縁へ追いやる。 その結果、自由は非合理、非科学的とみなされ、 科学と自由は必然的に衝突する。やがて科学は自由を否定するにまで至るであろう。

高校生の頃、神は目に見えないので存在するかどうかはなはだ疑問だ、と級友に言われたが、わたしは次のように返答した。すなわち「それでは尋ねるが心は目に見えるのか」と。級友は二の句が継げなくなって黙ってしまった。

愛、信仰、自由、悲しみ、希望、記憶、読書によって触れる他者の精神、これらはすべて目に見えない。しかし、目に見えないからといって存在しないわけではない。

空間を占め、形を持つものだけが存在すると考えるのは、われわれの古い悟性の習慣にすぎない。むしろ、目に見えないものこそが人間の精神の中心を形づくっている。

『星の王子さま』を著したサン・テグジュペリは「大切なものは、目に見えない」ことをその著書に記した。

SNSでブランドバッグを誇示する人を見かけることがある。その姿勢には目に見えるものだけで自己価値を測ろうとする危うさを感じる。

人間の価値は本来、可視の領域ではなく、不可視の精神の深みに宿る。だからこそ、若い世代には目に見えるものに惑わされず、目に見えない世界の重要性を早くから理解してほしいと願う。

目に見えるものは、しばしば人間を惑わせる。目に見えるものは測ることができ、比較することができ、優劣をつけることができるからだ。けれども、目に見えるものは本質ではない。本質はいつも目に見えないところに宿る。

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