読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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この記事ではタイトルに記したテーマについて記していきたい。本を千冊、読んでも腹は膨れない。歌を詠むことは恥ずべき行為で単に感傷的なことかも知れない。文章を読んでも読解力は少しもつかないかも知れない。国語塾を営んでいるわたしなどは文弱の徒かも知れぬ。
物を書く人間は昔から笑われてきた。穀潰しと嘲られてきた。その嘲笑にわたしは有効な反論ができない。なぜなら事実そのとおりだからだ。歌なんぞを詠んで飯が食えるものか。それはセンチメンタルで女々しいことかも知れぬ。
それでも人は物を書き続けてきた。物語を紡いできた。そして今なお物語は編まれ続けている。古来から日本人は歌を詠んできた。戦の最中でも。紙で伝えられないときは口で伝えた。
文学は無力だ。そして中学受験には少しも役に立たないかも知れない。けれども子どもたちに文章の力を知らせようとわたしは奮闘努力するのだ。自分の思想を伝える喜びをわたしは捨てない。わたしの書く文章が誰に届いているかは分からない。
何百年も経ってから中学受験とは関係のない場所でわたしの文章は読まれているかも知れない。もしかしたら人知れず反感を買っているかも知れぬ。あるいは思いもかけず共感されている場合もあるかも知れない。
わたしの孤独は曝さねばならない。誰かに書き手であるわたしの孤独を抱きしめてもらいたい。そして一掬の泪を滲ませてほしいのだ。そうすることでしか書き手の孤独は薄まらないに違いない。
文学は果たして中学受験に役に立つのであろうか。とりわけ国語の読解に役に立つだろうか。保護者をはじめ生徒諸君もそういう実際上の利益を求める。しかし、そうであってなお、わたしは国語塾を営みながらも全然、自信がなくなるのだ。
文学は実利的な観点から記せば無駄だと思う。あなたが欲しがっている読解力を手っ取り早くつけるためには何の役にも立たないかも知れない。けれども、子どもたちは物語に胸打たれているではないか。あるいは彼らなりに人生を考えることを始めているではないか。
人はすぐにでも答えを欲しがる。話を制し、結論を先に述べよ、と強いる。しかしながら結論に至るまでの足取りを愉しむのが文学の作法なのだ。物語を読む際の秘中の秘なのである。文学は物の役に立たぬかも知れない。中学受験の国語の成績はなかなか伸びないかも知れぬ。
けれども、そもそも文学は立身出世とは無縁の世界なのだ。子どもたちは競争に勝たねば、と躍起になるが文学は困った顔で苦笑いしている──それが真実に近いのではあるまいか。
中学校に通っていた時に国語の教師が次のような話をしてくれた。成績はまるで振るわない洟たれ小僧が短歌のコンクールに繰り返し入選したのだという。それを訝しく思ったその教師も考え考え短歌をコンクールに送ったが一度たりとも入選しなかったという。
わたしにはこの話がとても痛快で文学の真実を伝えているように思えるのだ。彼女の授業はすべて忘れてしまったが洟たれ小僧の話は髪に白いものが混じる今になっても懐かしく思い出すことができる。
あの教師は彼女なりに文学の真実を分かりやすく語ってくれたのだと思う。文学は人生の何たるかを認識せしむる威力を持っている。それだけにいわゆるテクニックには収まり切らないのだ。
ある塾は読解テクニックで特許を申請している、という。さような態度は何と文学から離れていることだろう。いわゆる読解テクニックと称して文学を金儲けの道具としてしか見られない点に現代の国語塾の堕落を見る、と記したらお叱りを受けるであろうか。
結局、文学は人生に向けて問う力を養ってくれるのだ。答えは教えてくれないのだ。解決は与えられない。文学は何の役にも立たないが、あなたはここまで読み進めたではないか。それが、このテーマで問うた質問への答えになるのだ。
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