卒塾生の課外授業(後編)

わたしは八時を過ぎているというのにまだ寝床で愚図愚図していたかった。昨晩の卒塾生と受験生とのやり取りで気を遣った。寝床に就いたのは十時過ぎですぐに意識がなくなった。気づけば朝の八時である。九時からは授業が始まる。

むろん授業準備はしてある。急いで支度をして教室を整えた。髪には寝癖がついていたがシャワーを浴びる暇はない。生徒の机を綺麗に拭いた。九時を過ぎたが生徒が来ない。連絡もない。

わたしは昨晩のことを思い出していた。授業前に塾生の保護者から今回の件で紙袋に入った菓子折りを頂いた。恐縮するとともにとても礼儀正しい姿勢に感心した。

わたしは授業中に生徒に「冬仕様の服だね」と言ったが生徒はお茶を濁した。照れているのだろうか。わたしはそれ以上、服装のことには踏み込まなかった。お洒落なワンピースだった。

授業前には今後の作戦を一緒に考えた。塾生にとって中学入試は人生で一回限りだ。一方、わたしは、これまでに数十回の入試に携わってきた。

作戦会議の後の小テストには丁寧な文字が記されていて間違いは少なかった。一回、訊いてみた。復習はしているのか、と。答えは然りであった。そうだろうな、と思った。

チャイムが鳴った。卒塾生だった。五分前に来てくれ、と頼んだので時間どおりであった。けれども、まだ授業が終わっていないと知ると部屋に入るのを躊躇した。手招きして促すと用意した席に座ってくれた。

制服姿の彼女は「懐かしい」と言っていた。半年以上会っていないから、わたしも口にはしなかったが彼女が懐かしかった。制服がよく似合っていた。

さらに彼女は菓子折りを渡そうとするのだ。その気持ちだけで十分だった。彼女はそういう人だった。わたしも自著と一緒に今晩の謝礼を渡した。彼女は恐縮していたが本と一緒に謝礼を渡すという工夫が功を奏した。

わたしはいつになく饒舌だった。ひとしきり話してから生徒の答案を見て助言した。授業後、卒塾生の机と塾生の机が直角になるように配置した。

真正面だと気まずいと思うので機転を利かせた。この配慮は昔のデートに着想を得ている。ちょっとした心理学を応用したのだ。

課外授業が始まる前に塾生は卒塾生にプレゼントを渡した。すこぶる感心した。塾生の母親は十分に配慮が行き届いているが、ここまでとは。卒塾生も感嘆の声を出していた。

わたしは受験生に「何か訊いておきたいことはある?」と水を向けた。すると手提げからクリップボードを取り出した。そこには質問したい項目が箇条書きで記してあった。質問事項を見ながら敬語で質問していた。

卒塾生は母校について丁寧に話していった。母校の廊下の広さや三棟ある体育館、プールが二つあることを話した。時々友だちと共にカフェテリアで食事することなども。

指定校推薦で早稲田大学の枠が四人分あることも話してくれた。しかも早稲田の枠を希望する者は一人もいないらしい。わたし、早稲田なんですけど…。

しばらく黙って聞いていた。彼女が学校生活を十分に謳歌していることが判った。終了時間を少し過ぎていた。ささやかな質疑応答は終わった。

交流会はふたりにとっていい時間になったと思う。けれども少し気を遣い過ぎた。ふたりから嫌われたくなかったのだ。否、好きになってほしかった。かてて加えて、もっと甘えてほしかった。

時計を見ると朝の八時を過ぎていた。アラームが鳴ってもタオルケットの端を握って離さなかった。九時に授業が始まる。寝床の中のわたしはそう思って急いで身支度を整え教室の机をセットしたのだ。

おかしい。九時を過ぎても生徒は来ない。もしやと思い、メールをチェックしたら今日はお休みと気づいた。迂闊だった。

昨晩、彼女らは一緒に階段を降りて行ったが、どんなことを話して帰って行ったのか妙に気になる。合格祝賀会でふたりの黄色い声を聞きたい。真相はその時分かるのではないか。

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