砕いて砕いて砕きたまえ

障碍者でありキリスト者でもあった瞬きの詩人、水野源三の詩に以下のような作品がある。題名は「砕いて砕いて砕きたまえ」だ。

  《御神のうちに生きているのに 自分ひとりで生きていると

  思い続ける心を 砕いて砕いて砕きたまえ

  御神に深く愛されているのに 共に生きる人を真実に 

  愛せられない心を 砕いて砕いて砕きたまえ

  御神に罪を赦されているのに 人の小さな過ちさえも

  許せられない心を 砕いて砕いて砕きたまえ》

  (水野源三「砕いて砕いて砕きたまえ」より)

  

われわれは多くの人々に支えながらもともすると自分一人の力で生きている、と自惚れてしまう。成績を上げたのは自分の教え方が良かった、と嘯く。そして塾の実績として自慢するまでに堕落する。さような思いを砕きたまえ、と源三は表現する。

わたしは塾の経営者だから塾の仕事をとおして源三の作品を理解しようと思う。塾は一人ひとりの生徒の親が月謝を支払い、そのお金で経営は成り立っている。どんなに高邁な理念を打ち出しても生徒が集まらなければそれは画餅に帰す。

わたしの父はかつて「塾生のために祈っているか」と言っていた。折に触れ短い言葉で祈っているが父には及ばない。父は教会員を愛そうと努めた。一人ひとりのために祈っていた。愛するとは意志の問題だ。現代には「愛」という言葉が溢れ返っている。

愛は足りないのだ。愛という言葉は供給過多になっているのにもかかわらず。人は愛されることを欲する。しかし、ヒューマニズムでは限界がある。人を完全に受け容れられるのは人ではない。神だ。

わたしは我が塾へ通う生徒一人ひとりを愛そうと思っている。授業中しばらくポカーンとしている生徒、素直でない生徒、教師を見下す生徒、皆、我が塾の生徒だ。行儀の良い生徒も悪い生徒もみんな来い。彼ら彼女らを愛するべく努めたい。

ある生徒は机に残った消しゴムのかすを手で掬ってゴミ箱に捨てた。とても好ましい姿勢だ。しかし、そうでなくとも我が塾は生徒諸君を見限らない。なぜなら、自分自身が塾や生徒から白い眼で見られた苦い過去があるからだ。

そして、わたしは叩けば埃の出る教師なのだ。これまでの生涯を振り返ると記憶を正視できない場面を多く抱えている。罪深い人間なのだ。年齢を重ねると自分の嫌な記憶も増えるのだ。詩人が記すように他人を赦せない頑なな心を神に砕いて欲しい。

わたしは過去の婚活パーティーで「ブルーカラー」と自己紹介すべきところを「ブルーワーカー」と言ってしまったことがあった。ある女性はその誤りを何回か指摘してきた。わたしは今なお彼女の些細な指摘を反芻して人を赦すこと、愛することの難しさを思う。主よ、わたしの頑なな魂を砕いて砕いて砕きたまえ。

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